2008年7月25日金曜日

立花大敬先生の「道」

 
 先日、掲載した立花大敬先生の「食事係の心構え」がおもしろい!との感想を友人がメールで送ってくれたことに勇気を得て、感謝(このツボは自分だけなのかと思っていたのでホントに嬉しかったです!)の気持ちを込めて、立花さんの本の中でもうひとつ僕が心動かされた話をご紹介します。

 立花さんの人となりを知るうえでも、参考になる文章だと思います。

 
 またまたちょっと長いのですが、ご容赦を!



 

 僕の前に道はない
 僕の後に道はない
 僕の一歩が道となり
 次の一歩が道となる
 僕が道だ
 僕が道だ

 今回はこの詩の意味を考えてみましょう。

 私は若い頃、自分が歩むべき道がわからなかったのです。途方に暮れて、誰か「君の道はこれだ」と教えてくれる人はいないか、自分の道を指示してくれる書物はないかとさがし求め続けました。

 何度も『これだ!』と思いこみ、裏切られるという体験をくりかえしてきて、四十を過ぎてようやく、そんな道なんて実は無かったんだと気づきました。それが、『僕の前には道はない』です。

 なぜないのでしょうか。
 それは実に単純なことで自分は自分であって人ではないからなのです。

 私はイエスでもないし、ブッダでもありません。私は私という、この広い宇宙にたった一つの独自の生命体なのです。

 それは、イエスでもブッダでも同じことです。
 イエスは、イエスという独自の生命体にふさわしい、こうでしかあり得ないという道を歩まれました(そして、今も、もう地球での体験などケロッと忘れて、“今”の道を歩みつづけておられるでしょう)。ブッダもブッダだけが歩み得る道を見事に歩まれました。

 でも、それはイエスの道であり、ブッダの道であったのです。
 それは私の道じゃない。イエスさまの足跡を私がたどって歩いていっても、それによって私といういのちの独自性を発揮することはできません。

 ある有名な禅僧の弟子Aさんがいました。Aさんは師匠がなくなられた時、かたみの老眼鏡をもらったのです。Aさんはその時以来そのメガネをかけはじめたのです。まだ若い人だったのに、お師匠さまのマネをしたいのでしょうね。わざわざ不便をしていたのです。そして、年をとって、「ようやく、師匠のメガネでハッキリモノが見えるようになりました」と喜んでおられました。

 これも何だか変でしょう。イエスの道、ブッダの道をその通り歩もうというのも、これとまったく同じことなのです。人のメガネをかけないで、自分の眼でしっかり見る、あるいは必要なら、自分の今の眼の状態にピッタリのメガネをかけることです。

 モーゼの前に現れた神は『アイアム ザット アイアム』とおっしゃいました。
 これは、平たく訳すと、『私は私だ(オレはオレだ)』という意味です。

 神とは何かというと、そのように、自分が何か外の存在を頼ったり、進むべき道を教えてもらおうと依存せず、自分が自分の今・ココにしっかり腰をすえている、その姿を“神”というのです。

 ホトケ
 ほっとけ
 あんたはあんた

 イエス
 きりすて
 あんたは
 あんた

 私の絵葉書に、子猫を描いて、『へたくそでも自分の足で歩こうね』と買いてあるのがあります。

 私のこれまでの人生の歩みぶりは、紆余曲折(うよきょくせつ、曲がりくねっていること)があって、人から見てずいぶんカッコ悪いものかもしれませんが、私はイエスにしろ、ブッダにしろ、道元禅師にしろ・・・、これらの方々の歩き方をマネしませんでした。

 カッコ悪くても、へたくそでも、自分の足で、自分の判断で、自分の全責任で、一歩、一歩、ヨロヨロでも、オロオロでも、進んできました。
 これが私の生きる道で、これが僕にしか歩めない、僕だけの独自の道であったのです。

 どんなにちっぽけでも
 どんなにみすぼらしくても
 自分でつくったもの
 自分のいのちだから
 湧き出したもの
 それが一番輝いている

 風が吹けば
 転べばいい
 穴があったら
 落ちればいい
 どっちへどう転んでも
 君は君なんだから


 過去にもいろんなことがありました。『生活能力がないヤツ』と言われたり、『三十にもなってウロウロしているのか』としかられたり、軽蔑の眼に出会うことも多かったのですが、これらはすべて過去のことです。過去とは過ぎ去って、もう無いから過去といいます。
 もうないんだから、アカンタレの大敬さん、甲斐性無しの大敬さんも、もう無いのです。
 以前の私は、そんな、人から見た“大敬像”で、自分を決めつけてしまって、そんな“決めつけ”にもとづいて、自分の歩み出す方向を決めるというようなバカなことをしていました。
 四十をすぎて、ようやく『僕の後に道はない』と気づいて、今・ココの自分が、まっ新(さら)な、『はじめの一歩』を踏み出せるようになりました(八十からでも、百歳からでも人は新しく生まれ変わることができます。なぜなら過去はないからです)。

 雲門禅師はある月の十五日の日に、弟子たちに次のように質問されました。
 「十五日以前のことは問わない。十五日以後のことを一言いってみなさい」

 『十五日以前のことは問わない』、過去はもうないんです。以前は社長だった、以前はアカンタレだった・・・、すべてもう消え去ってないのです。
 このように、過去をすべてリセットしてしまって、また、まったく道のない未来の大地に向かって立った今、『君はどのように一歩を踏み出してゆくのか、一言で言ってみなさい』とおっしゃっているのです。

 この方向に踏み出せば、先に毒ヘビがいるかもしれない、この方向に行けば、落とし穴があるかも知れない、こちらに行けば宝物に出会うかもしれない、・・・。

 この雲門さんの問いに対して、弟子たちは答えることができませんでした。
 そこで雲門さんは、「私なら、日々是好日(にちにちこれこうにち)と歩いて行くよ」と答えました。

 どの日も、どの日も好日、最高の日。
 毒ヘビに出会ってよき日、落とし穴に落ち込んでも最高の日!と僕は歩いていくよとおっしゃっているのです。

 私が、人に依存せず、私の全責任で決断し、思い切って踏み出した道、この道はすべての比較を超越して最高の道、絶対の道です。

 わがいのちは強く、たくましいのです。毒ヘビに出会っても、落とし穴におちこんでも、そのことを栄養分に変えて、一層大きく成長していくのです。
 だから、安心して悩んでいい、迷っていい。

 これらすべての経験をふまえて、私たちは必ず、いつの日か、“ひとつのいのち”の故郷(エデンの園)に帰りつくことが決まっているからです。

 今日(きょう)ノ
 生日(いくひ)ノ
 足日(たるひ)ニ
 (祝詞(のりと)の一節より)


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