2009年8月25日火曜日

岡潔さんが語る「情緒」そして「明治以前の日本人」2

私が岡潔さんのエッセイを読んで一番学びとなることは「情緒」の大切さと合わせて、「明治以前の日本人」のことを教えてくれることにあります。

当たり前のことほど、(当たり前だから)記録として残されていないものです。
日本は「言挙(ことあ)げ」しない国ですからなおさらですね。

明治の初頭に、日本人はぐずぐずしていると亡ぼされるかもしれないという恐怖から、西洋の物質主義を無批判に取り入れた。
以降日本人は、この物質主義の水の中に住み続けている。今の日本人は、初めに時間・空間というものがあって、その基盤の上に自然があって、自然の一部が自分の肉体即ち自分である、一切はこんなにもはっきりしていて、これで一切の説明がつく、としか思えないらしい。これを物質主義といっているのである。
物質主義だから、人は肉体が死ねばそれっきりだとしか思えない。皆そう思って、そのつもりで人生の計画をたてている。
本当は僅々七十年ぐらいでできることなんか何一つないのだから、無理に勝手な理屈をつけて、計画がたったといっているのである。
しかし明治以前の日本人は、死ねばそれきりなどとは思っていなかったのであって、この一生をながい旅路の一日のごとく思っていたのである。そして私もそう思っている。

明治以前の日本人は「死ねばそれきりなどとは思っていなかった」のですね。私はこの話を初めて聞いた時、とってもうれしかったことを今でもよく覚えています。
「そして、私もそう思っている」
私も一緒です。

次の言葉も私の好きな、大切にしている岡さんの日本人へのメッセージです。
「こんな役割が日本人にはあるんですよ!」と岡さんが日本人にエールを送ってくださっているわけです。

ところで、道元禅師であるが、禅では毎朝観音菩薩を拝むのであるが、その時つねに「願うこと」は、「我より先に人を渡さん」という歌をよんでいる。
日本民族を代表して七百年前に道元禅師がこう言明してしまったのだから、私たちはこの誓いを破るわけにはいかない。
それで観音菩薩と同じさとりの位までは行けるが仏になってしまってはいけない。
それで私たち日本民族は、渡せる(即ち仏にできる)ほどの人たちは皆渡してしまって、最後に自分たちが渡ることにするほかない。
そのとき一言「ご苦労さんでした」といってもらえれば望外である。


そして、最後にこの一文を。
「自然が美しければ自分がうれしい」
「人が喜んでいると自分もうれしい」
こうありたいなといつも思っていることです。まだまだですが、ほんのちょっぴり指先が触れられる瞬間があります。いつかは、ギュッと。・・・昔の、本当の日本人に。


日本人は、だいたい明治以前には、自然とか人の世とかをそのまま自分の心の内容だと思っていました。
自然が美しければ自分はうれしいし、他人が喜んでおれば自分もうれしいというふうでした。
そういう広々とした心が本当の自分なのだと、仏教は教えております。それを真我と申します。
仏教がはいる前から日本民族はそう思っていました。

2 件のコメント:

日月神教-向左使 さんのコメント...
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Unknown さんのコメント...

huhu