2009年8月24日月曜日

岡潔さんが語る「情緒」そして「明治以前の日本人」

世界的な天才数学者で憂国のエッセイストである岡潔(おか きよし)さんの著書を久しぶりに読み返し、改めて日本人としてこの世にやってきたことへの歓びと感謝の想いにひたり、感じ入りました。

岡さんは日本人の素晴らしさは「情緒」にあるといつもおっしゃっています。

岡さんのおっしゃる日本人は、私が日ごろから目指してはいるけれど、なかなかこの指でふれることのできないでいる美しき情緒豊かな日本人です。



「人と人との間にはよく情が通じ、人と自然の間にもよく情が通じます。これが日本人です」

そう日本人のことを岡さんは端的におっしゃっています。


「たとえば、すみれの花を見るとき、あれはすみれの花だと見るのは理性的、知的な見方です。むらさきの色だと見るのは、理性の世界での感覚的な見方です。そして、それはじっさいにあると見るのは実在感として見る味方です。
これに対して、すみれの花はいいなあと見るのが情緒です。これが情緒と見る味方です。情緒と見たばあいすみれの花はいいなあと思います。芭蕉もほめています。漱石もほめています」



自然環境へ意識を向けるようになった現代にも深く通じる言葉も残してくれています。

「情緒の中心の調和がそこなわれると人の心は腐敗する。社会も文化もあっという間にとめどもなく悪くなってしまう。そう考えれば、四季の変化の豊かだったこの日本で、もう春にチョウが舞わなくなり、夏にホタルが飛ばなくなったことがどんなにたいへんなことかわかるはずだ。これは農薬のせいに違いないが、農薬をどんどんまいてはしごをかけて登らなければならないような大きなキャベツを作っても、いったい何になるのだろう。キャベツを作る方は勝手口で、スミレ咲きチョウの舞う野原、こちらの方が表玄関なのだ。情緒の中心が人間の表玄関であるということ、そしてそれを荒らすのは許せないということ、これをみんながもっともっと知ってほしい。これが私の第一の願いなのである」


芭蕉の有名な句の解釈が私は日本人の情緒に根差した句であることをすでに忘れ、「情けは人のためならず」と同様に、異なる解釈をする人が多くなっているように思います。

秋深き隣は何をする人ぞ

という芭蕉の句がありますが、芭蕉は小我を自分だとは思っておりません。真我こそ自分だと思っていたのです。人と自分との間には情が通じ合う。自然と自分との間にも情が通じ合う。だから、

秋深き隣は何をする人ぞ

という句の本当の意味は、つまり芭蕉が一番強くいおうとしていることは、秋も深まると隣の人が何をしているんだろうと非常になつかしい。なつかしさというあたたかさがあるのです。表面には何をしているかわからないという淋しさもありますが、句の底にあるのはあたたかさなのです。底があたたかくて、表面が冷いーーこれが芭蕉のいう「人の世の哀れ」であります。これが芭蕉の俳句の真髄(心)です。芭蕉は俳諧は万葉の心なりといっています。だから万葉のころもそうだったのです。また万葉は、日本に文字が伝わるとともにすぐに書き残されたものです。だから日本においては上代もそうだったのです。本当の日本人は情が中心であり、それが自分であります。

『草枕』に関しては、私も恥じかしながら、「小我」の解釈をしていたようです。

人として一番大切なことは、他人の情、とりわけ、その悲しみがわかるということです。これについては釈迦も孔子もキリストも口をそろえてそういっています。夏目漱石は『草枕』に初めに「情を棹(さお)させば流される」と書いているではないかという人もありますが、終わりまで読んでください。「憐」という字に終わっていますから。