2009年10月30日金曜日

エジソンの食事

「食」のことでシンクロがまだまだ続いています。

先日は、発明王エジソンの食生活を教わる機会がありました。


 エジソンは81歳の時、自らの生活について明らかにしたことがあったそうです。

その内容は、

1、 私は棺桶に入る数日前まで発明を続けるつもりである。

2、 毎日、パン、野菜、果物ばかりで、一日分が普通の人の一食分で、ほとんど肉食はせず、まれにイワシを食べるくらいだ。

3、 自分が3時間くらいの睡眠で昼夜仕事ができるのは小食のためであり、その精力は菜食のおかげである。


エジソンの食事は菜食で、生食で、小食だったのです。

小食だから睡眠時間が少なくても済み、菜食によって仕事に集中没頭できる秘訣をここで明らかにしてくれています。

この食生活は、水野南北の開運の食生活にぴったりと通じるところがあり、大変、面白いですね。

2009年9月16日水曜日

安楽な人生を送るために生まれてきた人はいない


「人は幸せになるためにこの世に生まれてきています」。
しかし、その一方で、
「安楽な人生を送るためにこの世に生まれてきた人は一人としていない」のもまた事実です。

なぜかというと、この世にやってくる前にいたあの世というのはとても安楽な世界なんです。
大概のことが思った通りになります。しかも思うとすぐに叶い目の前に現れます。
この世とはまた全然違うんですね。

ですから、安楽に過ごしたいのであれば、この世にやってくる必要はまったくないわけです。

人は、この世に、思い通りにいかないことに巡り会い、つらく、苦しい思いをするためにやってきているのです。

しかも、そんな安楽な世界からこの世に無理やり連れ込まれてきた人は一人としていません。

すべての人が自分で「どうか行かせてください。お願いします」と強く懇願してやってきています。

また、この世にやってくるにあたり、自らの人生で起こることの多くを“自ら決めた上で”やってきているといわれています。

思い通りにいかない、つらく、苦しいことは誰が決めたわけでもなく、自分でこうしようと決めたことばかりなのですね。

その多くは、これまで生まれてきて超えられなかった“課題”であるようです。

人は過去に幾度もこの世での人生を送っています。
そして、以前に失敗したにも関わらず、気づきがないがために何度も同じ失敗を繰り返してきています。

ブライアン・L・ワイスの「前世療法2」にはこのような実際の事例が紹介されています。

ダンというアメリカ人の男性は、恋人であるメリールーがいつも人前で他の男に媚(こ)びを売ることに、我慢できませんでした。それが何度も続くので、彼はついに嫉妬(しっと)で怒り狂い、彼女の「首をへし折ってやりたい」とまで思いつめるようになります。しかし、退行催眠でダンが知ったのは、過去世で彼が彼女を何度も殺していたという事実でした。

ダンは何度も生まれ変わりをしながら同じ苦しみを背負う人生を送りながら、繰り返し、繰り返し学ぶ機会を与えられてきたわけです。
彼の課題は彼女を解放し、そして自らを彼女への執着から解放して、嫉妬の感情から心を自由にすることにあったのです。


自分の目の前に現れることは、自分が仕掛けた「時限つき体験爆弾」のようなものです。
自分がこの世で体験したいと思うことが時間割ごとに仕掛けられています。正確には自分で仕掛けてあります。
その課題は貴重な限りある(寿命ある)この世での時間を無駄にしていましますので、必ず自分が超えられる課題のみになっています。
超えられない問題、難題は決して起こらないのです。

そして、その体験、課題は、自分の魂の成長につながることばかりです。

体験をして、そこで「これらのことは自分に必要なことなんだ」と明るく前向きなポジティブな気持ちになり、すーっと受け入れた瞬間に課題は“合格”となり、カルマは消えていきます。
自分の前で嫌な、つらい思いの原因になっていた人や事柄さえも、自分のその体験のためにわざわざ現れていたことに気づく時がやってくることでしょう。

課題を乗り越えた時の歓びのために人はわざわざこの世にやってきているわけです。

ですから、嫌なこと、つらいことがあって当たり前なんだ、自分が超えられないことはないんだというポジティブな気持ちで、日々を過ごしてください。

せっかくの良き機会です。「多くの経験」をしてください。

多くの経験から多くの学びを得て、持ち帰ることが自らの歓びと成長になるのです。

多くの体験から、多くの歓びと幸せがもたらされるよういつも祈っています。

2009年9月14日月曜日

「君は日出る国の生徒だ」

以前にこのブログでご紹介したことのある占部賢志(うらべけんし)さんの著書の続編である「続 歴史の『いのち』」にアルゼンチンと我が国との浅からぬ友好の歴史が描かれています。

アルゼンチンは長いスペインの支配下から1816年を迎えようやく独立します。その後、ヨーロッパやアメリカに対しても与(くみ)しない独自のスタンスをとっていたため、独立国として格段の緊張を強いられる状況にあったそうです。

こうした背景の中、近隣で10倍の人口を持つ清国と戦争をすることになった日本への関心と共感は高まり、当時、欧米列強ではありえなかった対等な関係に立つ画期的な通商条約が日本とアルゼンチンとの間で1894年に締結されます。

「ヨーロッパからの圧力に屈せず、アメリカ主導の米州諸国会議の枠組みからも一定の距離を保ち、他国に左右されない独立を堅持する基盤とは何かを求めて已まなかったアルゼンチンにとって、日本は肖(あやか)りたい手本と映っていたのである」
と占部さんは記しています。

そのアルゼンチンの日本への関心が頂点を迎えたのが日露戦争でした。日本への研究はますます進展していったそうです。

なぜ日本が強国・ロシアに勝てたのか世界各国の関心事となっている中でアルゼンチンの研究は世界の中でも最も的確な分析をしているといわれたそうです。

アルゼンチンの新聞「ナシオン」には当時、次のような記事が書かれています。
「大砲の大小、銃の軽重、巡洋艦、魚雷艇、装甲艦の性能などあれこれといった技術者の間で長談義される問題は、専門家の屁理屈以外の何物でもない。勝利をもたらすのは爆薬や威力ではなく、人間なのである。日露両国民の精神は十世紀も十五世紀もかけて形成されてきたものであり、その結果として四千五百万人の日本人が一億三千五百万人のロシア人を打ち破ったのである」

明治の日本人には、アルゼンチンの人々が高く評価するほどの高い国民性が随所に見られたようです。占部さんは日露開戦の詔勅(しょうちょく)と同時に出された文部大臣訓令を紹介しています。

「『(前略)今や露国と事を構うるも固と是れ平和を永遠に克復するが為なれば、学生生徒が客気に駆られ露国民に対して嘲罵(ちょうば)を逞(たくま)しくし、延きて他の外国民にまで悪感を懐かしむるが如きことになかたしむるは、子女の教育上最も注意を要する所なり』。

開戦必至の前夜ですから、日本国内には、ロシア憎しとする声は高まっていました。敵愾心(てきがいしん)に駆られた大人たちのあいだには「ロスケ」なる言辞が飛び交い、当時の子供達は至るところで耳にしていた。子供というものは大人の真似をしたがるもので、勢い教室の中でも口にするものが出てくる。
こうした空気を察知した文部省は、開戦の詔勅とともに全国の小学校に向けて、敵と雖(いえど)も侮蔑するなかれと戒める訓令を発出したというのです。

このような倫理性を体した国柄に共感する一方で、西洋文明を融通無碍(ゆうずうむげ)に取り入れ近代化に邁進(まいしん)する闊達な精神も重要な勝因としてアルゼンチンは称賛して已みませんでした。
なかでも『五箇条の御誓文』に注目し、第四条「旧来ノ陋習(ろうしゅう)ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ」、第五条「智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ」に示された開明性を取り上げ、「多くの熱心な学生をイギリス、ドイツ、フランスの学校や工場、およびアメリカの研究所や大学へ留学させ、四〇年間にわたって習得した西洋文明のすぐれた弟子なのである」と評価したそうです。


このアルゼンチンの対日観は、大東亜戦争に敗北した日本に対しても失せることはありませんでした。

敗戦後にアルゼンチンに移住した、現地日本語紙「ラプラタ報知」の編集主幹高木一臣氏の回相談が「続 歴史の『いのち』」に記されていますので、紹介させていただき、この記事の仕舞いとしたいと思います。

我が祖国・日本を離れ、このアルゼンチンに来て、五十年が経ちました。一九五一年六月、私は全くスペイン語を知らないでこの国にやってきました。当時、無一物の私は、無料の国立夜間小学校のあることを知り、強引に校長先生にお願いして入学を許されました、そして、日本の大卒でしたが、子供たちと机を並べて勉強を始めました。
小学校を終えると、次に夜間の国立中学校に入学しました。二十六歳の時でした。
入学して一年、歴史の授業での出来事です、先生は生徒を名指ししし、教壇に呼びだして復習してきたかどうかを質問します、その時、「ホセー、前に出ろ」「ファン、前に出ろ」と名前で呼ぶのが常でした。ところが私の場合、なぜか「高木」と名前で呼びません。
「『日出(い)づる国』の生徒よ!前に出ろ(アデランテ アルームノ デル パイスデ “ソル ナシャンテ”)と呼んだのです。
私はこれに対し、「先生、『日出づる国』の生徒よ、という呼び方はやめて下さい」
と言いました。
「なぜか?」と反問する先生に向かって私は、「先生、太陽は落ちたのです。日本はもう『日出づる国』ではなくなったのです」と答えました。
しかし、先生は、「君が『太陽は落ちた』と言うのは、日本が戦争に敗(ま)けたからか」
と質(たず)ね返してこられました。
私は「そうです」と答えると、先生はキッとした厳しい顔つきになりました。そして、
「君は間違っている!日本が『日出づる国』であるのは、戦争に強かったからではない。日本はアジアで最初に西欧文明を取り入れて、わがものとし、世界五大郷国の仲間入りをした。このことに示されるように、『西洋文明』と『東洋文明』という全く異質の文明を統一して、世界文明を創り上げる唯一の能力をもった国である。この難事業をやり遂げたのは、日本において他にはない。日本がこの能力をもちつづける限り、日本は『日出づる国』であるのだ。戦争の強弱などという問題は、『西洋文明』と『東洋文明』の統一という大事業の前には、取るに足らぬことなのだ。君は日本が戦争に敗けたからといって、卑屈になる必要など毫(ごう)もない。俺は『日出づる国』の人間なのだという誇りと精神を失わず、胸を張って歩きたまえ」
と私に向けって言われたのです。
私はこれを聞いて、涙が溢(あふ)れ出るのを押さえられませんでした。

2009年9月11日金曜日

個性

「自分の作品に責任なんて持てません。だって私が作っているのではなく、神様に作らせていただいています」

この言葉は、寝食を忘れて作品に没頭したと言われる天才版画家、棟方志功さんの言葉です。

はたから見ると、熱情の画家ピカソと同様に芸術のエネルギーに満ち溢れ、才能の塊のように見える棟方志功さんですが、彼の心の中ではそのような偉大なる力とのつながりが働き、すべてを「お任せ」していたのだなとこの話をうかがった時、私は大いに感動いたしました。


現代は、「個性」を前面に出すことがとても重要なことであるかのように取り上げる風潮があります。

中でも、“個性の最前線”にいつでもいるよう求められているのが、いわゆる「アーティスト」と呼ばれる世界の人たちです。

この世界の人たちは、はたからそう評価されるだけではなく、自らも個性を売り物にしている人が数多くいます。
また、若い人たちも、個性的であることが存在理由であるかのように、「私は、私は」「僕は、僕は」をフルタイムでアピールする人生を送っています。


でも、そんな「個性」について、画家の東山魁夷(かいい)はこんな風に述べています。

「一見、逆説のように聞こえますが、むしろ自分を意識しないとき個性は現れるのではないでしょうか。

自己の主張を強く押し出すといいますが、果たしてそれが本当に自分を認識しているのか、疑問に思うこともあります。個性は自分が認識しているものではないところに現れているように思います。
個性と自己主張は同じものではありません。
私の絵には自己主張の迫力というものはあまり現れていません。でも、自分が受けた感動を素直に表していくと、そこに自分の本当のものが現れているのではないかという気がします」

個性は自己主張とはやはり異なるものなのですね。

すべての人が魂の中に自分の光を持っています。
「神様の器」に近づけば近づくほど、その魂の光が発し出します。
それが個性であるように私も思います。
「個性」は探し出すものではなく、すでに持っているものなのです。


「神様の器」に近づくための方法はいろいろなことがありますが、ひとつは「楽しむこと」にあるように思います。

自分の目の前のことを楽しむことです。

今を楽しめずに、明日に楽しみがあると思うから苦しみが生まれます。
今を楽しめずして、明日に楽しみはないということを多くの神人、聖人が昔から教えてくれています。

「論語」雍也(ようや)篇にも、こうあります。


「これを知る者はこれを好む者にしかず。これを好む者はこれを楽しむ者にしかず」

どんなことも、これを知っているというだけでは、それを好きだという人の力には及ばない。そして、それが好きだという人よりも、それを楽しんでいる人はもっと上である。

2009年8月27日木曜日

自在

「自在」であること。

いつも心がけていることですが、なかなか簡単にはできないことです。

「自在」は、私がいつも考えている「執着」とも深くかかわることでもあります。


「いつも神様の器でありたい」


そう願って日々過ごしていますが、気づくと、神様とは程遠い「私の器」になった自分がドシンと目の前に鎮座していることがしばしばです。


悪いことに「執着」しない方がいいのは、不幸や不運が改善するどころか、「深刻化」か「延長化」しかしないためです。

良きことへの「執着」もまた、そのことが、魂の大切なスペースを占領してしまいます。
このため、成長のための新たな良きことが入ることができなくなり、通過して他の人のところに行ってしまうことになります。
また、「良きこと」と思っていたことも、その瞬間は良きことと思えても、“今”を過ぎれば過ぎるほど熟れ始め、形が変わり、消えて行くことにもなってしまいます。

実は人は、この瞬間にも、死んでいるのです。

そして、次の瞬間には、生まれています。

死んでは生まれ、死んでは生まれの連続が人生なのです。

だから、いつでも生まれ変わることはできます。

やり直すに、何かを始めるに、「遅い」ということはないのです。

自分のやるべきこと、神様からのメッセージ、それらはすべて目の前の“今”にこそあるのです。

今ここに生きている真心込めて生きている人を神様は応援してくれます。

そのように生きていると、自分の「天命を全う」できます。

このことは、神様からのお勤め、お役目が終わらない限りは(天命を全うするまでは)、いかなることがあろうと、生命を奪われることはないという確たる自信を持った生き方ができることにつながるのです。


「自在」を思う時に、思い出すいくつかの話があります。

この中からふたつのお話を今日はご紹介したいと思います。

ひとつ目は、私の好きな良寛さんの逸話です。

庄屋の阿部定珍(さだよし)さんは、良寛さんへの主な施し主でした。

ですから、良寛さんは阿部さんの家に托鉢(たくはつ)にやって来ることがたびたびありました。遅くなると、阿部さんの家に泊めてもらうこともありました。

そんな関係ですから、食事時の、食膳の位置も決まっていました。

良寛さんは無頓着な性格です。食器などがいつもと違っていても、目の前にお膳が置かれていると、「いただきます」と言って、箸を取り、食べてしまいます。

時には、魚の汁物が出されていても、知らないかのごとく食べました。

それに気づいた家の者が、

「あれっ、良寛さま、それは鱈(たら)汁ですよ」

と教えると、そこで初めて、

「あっ、そうですか」

と言って、食べるのをやめたそうです。



今のお坊さんのことはよく知りませんが、昔のお坊さんは殺生を固く戒めていましたらから、食べ物も肉や魚をまったく口にしませんでした。良寛さんもそうした「決まりごと」の厳しい時代に生きているのですが、目の前に鱈汁が出されてくると感謝していただいてしまいます。
「それには魚が入っていますよ」と言われるので、「はい、そうですか」と素直に箸を置きます。
良寛さんは神様の器になりきれた人ですので、目の前のことはすべて神様からのお役のように、いただきもののように、素直に、歓びを持って、受け入れていきます。
「いけませんよ」と言われたのも、人の口を借りて神様から言われたかのごとく、素直に受け入れます。
とっても、「自在」ですね。
とっても良寛らしい逸話だと私は思います。



もうひとつは、道一和尚さんの話です。

ある日、彦根の清涼寺の道一和尚さんが足にお灸をしていました。
すると、そこに旧知の医者がやってきました。

「和尚さん、今日は不浄日です。不浄日にお灸をすえると悪いことが起こりますよ」
と注意しました。和尚はすぐに、

「ああ、そうですか。では、やめることにしよう」

と言って、灸箱を片付けてしまった。医者は二時間ほど歓談して帰っていきました。

医者が帰ると、和尚はまた灸箱を取り出してお灸をすえにかかりました。

それを見た小僧さんが、

「和尚さん、今日は不浄日ということでしたが、大丈夫なんですか」

と聞きました。すると、道一和尚さんはのんびりとお灸をすえながら笑って答えました。

「心配しなくてもいいんだよ。不浄日はいま、帰ってしまったよ。わしは禅僧じゃ。浄、不浄には惑わされないだけの修行はしてきたつもりじゃよ」

「なるほど、そういうことだったのですね」


道一和尚さんも、よく知る医者から言われたら、そうではない立場にあろうと、「そうか、そうか」と言って、お灸をやめてしまう。「不浄日」が帰り、不浄日が過ぎ去ってしまうと、再びお灸をのんびりと始める。

目の前の今にきちんと向き合い、応えながら、意地を張り固まることなく、自由に、素直に生きています。

ここにも素晴らしい「自在」があります。

先人たちの息吹にふれて、少しずつでも、今この人生で、「自在」を持った生き方ができるようになりたいものですね。

2009年8月25日火曜日

岡潔さんが語る「情緒」そして「明治以前の日本人」2

私が岡潔さんのエッセイを読んで一番学びとなることは「情緒」の大切さと合わせて、「明治以前の日本人」のことを教えてくれることにあります。

当たり前のことほど、(当たり前だから)記録として残されていないものです。
日本は「言挙(ことあ)げ」しない国ですからなおさらですね。

明治の初頭に、日本人はぐずぐずしていると亡ぼされるかもしれないという恐怖から、西洋の物質主義を無批判に取り入れた。
以降日本人は、この物質主義の水の中に住み続けている。今の日本人は、初めに時間・空間というものがあって、その基盤の上に自然があって、自然の一部が自分の肉体即ち自分である、一切はこんなにもはっきりしていて、これで一切の説明がつく、としか思えないらしい。これを物質主義といっているのである。
物質主義だから、人は肉体が死ねばそれっきりだとしか思えない。皆そう思って、そのつもりで人生の計画をたてている。
本当は僅々七十年ぐらいでできることなんか何一つないのだから、無理に勝手な理屈をつけて、計画がたったといっているのである。
しかし明治以前の日本人は、死ねばそれきりなどとは思っていなかったのであって、この一生をながい旅路の一日のごとく思っていたのである。そして私もそう思っている。

明治以前の日本人は「死ねばそれきりなどとは思っていなかった」のですね。私はこの話を初めて聞いた時、とってもうれしかったことを今でもよく覚えています。
「そして、私もそう思っている」
私も一緒です。

次の言葉も私の好きな、大切にしている岡さんの日本人へのメッセージです。
「こんな役割が日本人にはあるんですよ!」と岡さんが日本人にエールを送ってくださっているわけです。

ところで、道元禅師であるが、禅では毎朝観音菩薩を拝むのであるが、その時つねに「願うこと」は、「我より先に人を渡さん」という歌をよんでいる。
日本民族を代表して七百年前に道元禅師がこう言明してしまったのだから、私たちはこの誓いを破るわけにはいかない。
それで観音菩薩と同じさとりの位までは行けるが仏になってしまってはいけない。
それで私たち日本民族は、渡せる(即ち仏にできる)ほどの人たちは皆渡してしまって、最後に自分たちが渡ることにするほかない。
そのとき一言「ご苦労さんでした」といってもらえれば望外である。


そして、最後にこの一文を。
「自然が美しければ自分がうれしい」
「人が喜んでいると自分もうれしい」
こうありたいなといつも思っていることです。まだまだですが、ほんのちょっぴり指先が触れられる瞬間があります。いつかは、ギュッと。・・・昔の、本当の日本人に。


日本人は、だいたい明治以前には、自然とか人の世とかをそのまま自分の心の内容だと思っていました。
自然が美しければ自分はうれしいし、他人が喜んでおれば自分もうれしいというふうでした。
そういう広々とした心が本当の自分なのだと、仏教は教えております。それを真我と申します。
仏教がはいる前から日本民族はそう思っていました。

2009年8月24日月曜日

岡潔さんが語る「情緒」そして「明治以前の日本人」

世界的な天才数学者で憂国のエッセイストである岡潔(おか きよし)さんの著書を久しぶりに読み返し、改めて日本人としてこの世にやってきたことへの歓びと感謝の想いにひたり、感じ入りました。

岡さんは日本人の素晴らしさは「情緒」にあるといつもおっしゃっています。

岡さんのおっしゃる日本人は、私が日ごろから目指してはいるけれど、なかなかこの指でふれることのできないでいる美しき情緒豊かな日本人です。



「人と人との間にはよく情が通じ、人と自然の間にもよく情が通じます。これが日本人です」

そう日本人のことを岡さんは端的におっしゃっています。


「たとえば、すみれの花を見るとき、あれはすみれの花だと見るのは理性的、知的な見方です。むらさきの色だと見るのは、理性の世界での感覚的な見方です。そして、それはじっさいにあると見るのは実在感として見る味方です。
これに対して、すみれの花はいいなあと見るのが情緒です。これが情緒と見る味方です。情緒と見たばあいすみれの花はいいなあと思います。芭蕉もほめています。漱石もほめています」



自然環境へ意識を向けるようになった現代にも深く通じる言葉も残してくれています。

「情緒の中心の調和がそこなわれると人の心は腐敗する。社会も文化もあっという間にとめどもなく悪くなってしまう。そう考えれば、四季の変化の豊かだったこの日本で、もう春にチョウが舞わなくなり、夏にホタルが飛ばなくなったことがどんなにたいへんなことかわかるはずだ。これは農薬のせいに違いないが、農薬をどんどんまいてはしごをかけて登らなければならないような大きなキャベツを作っても、いったい何になるのだろう。キャベツを作る方は勝手口で、スミレ咲きチョウの舞う野原、こちらの方が表玄関なのだ。情緒の中心が人間の表玄関であるということ、そしてそれを荒らすのは許せないということ、これをみんながもっともっと知ってほしい。これが私の第一の願いなのである」


芭蕉の有名な句の解釈が私は日本人の情緒に根差した句であることをすでに忘れ、「情けは人のためならず」と同様に、異なる解釈をする人が多くなっているように思います。

秋深き隣は何をする人ぞ

という芭蕉の句がありますが、芭蕉は小我を自分だとは思っておりません。真我こそ自分だと思っていたのです。人と自分との間には情が通じ合う。自然と自分との間にも情が通じ合う。だから、

秋深き隣は何をする人ぞ

という句の本当の意味は、つまり芭蕉が一番強くいおうとしていることは、秋も深まると隣の人が何をしているんだろうと非常になつかしい。なつかしさというあたたかさがあるのです。表面には何をしているかわからないという淋しさもありますが、句の底にあるのはあたたかさなのです。底があたたかくて、表面が冷いーーこれが芭蕉のいう「人の世の哀れ」であります。これが芭蕉の俳句の真髄(心)です。芭蕉は俳諧は万葉の心なりといっています。だから万葉のころもそうだったのです。また万葉は、日本に文字が伝わるとともにすぐに書き残されたものです。だから日本においては上代もそうだったのです。本当の日本人は情が中心であり、それが自分であります。

『草枕』に関しては、私も恥じかしながら、「小我」の解釈をしていたようです。

人として一番大切なことは、他人の情、とりわけ、その悲しみがわかるということです。これについては釈迦も孔子もキリストも口をそろえてそういっています。夏目漱石は『草枕』に初めに「情を棹(さお)させば流される」と書いているではないかという人もありますが、終わりまで読んでください。「憐」という字に終わっていますから。