2008年7月30日水曜日

夏風邪

 夏風邪をひいたらしく、この2週ほど体調がすっきりしない。
 回復期に入っているけど、その谷間のようでモチベーションがまったく上がらない。
 こういう時はネガティブなことを引き寄せがちになるものとどこかで覚悟している。
 その通り、連日、結構、重いテーマや思い相手との関わりが続く。

 この2年ほど冬場も風邪ひとつひかなかったので、何かの変化、何かのメッセージなのだろうと考え、原因や意図を探索するが、「これだ!」という答えも鈍った頭では浮かばない。

 結局は、いつも通り早起きし、朝日を拝む「日拝」を行い、右肩の上にいる守護霊に本日もよろしくとあいさつし、「幸せのソフト」として以前ご紹介した「親切」「明るく朗らか」「謙虚」「素直」「感謝」の五カ条を心の中で唱える。

 「再来週いっぱいでとりあえずこの世を終わりにします」
 と神様に言われてたとしても、きっと今ならこの習慣で連日変わらずいくな、という感じがする。


 男として尊敬している大好きな知人からおととい
 「自裁すること考えたけどやめた」
 と言って、手渡された

 ジョー・ヴィターリ、イハレアカラ・ヒューレン著「ハワイの秘法」を読む。

 表紙を見た瞬間、「こんなことあるんだ」と驚いた。
 待ち合わせた時間より早かったので、本屋に寄り、手にして迷いに迷い「まだ家に読んでいない本があるから次回にしよう」と買い控えたその本だったからだ。

 「今回のメッセージはこの本の中にあるのかもしれない、いや、きっとそうのだろう」とどこかで確信しながらぺージをめくる。

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2008年7月29日火曜日

秩父観音巡礼に想う 「知足のつくばい」



 ご存知の人もいらっしゃると思うが、京都の竜安寺には「知足のつくばい」がある。

 「つくばい」とは用を足した後に手を洗う場所のこと。石の中央には四角く穴が彫られていて水がたまるようになっている。

 四角の中央の穴を「口」という文字にたとえ、上下左右の文字と組み合わせて右回りに読むと、「吾唯足知」。

 「吾(われ)、唯足(ただた)ることを知る」となる。

 これは禅の格言である
 「知足の者は貧しといえども富めり、不知足のものは富めりといえども貧し」を示したもの。

 急な石段を登り、ようやくたどりいついた31番札所の観音院の境内で、お詣りの前に手を洗おうと視線を下げたところに、この「知足のつくばい」はあった。


 本家の京都・竜安寺の「知足のつくばい」を寄贈したのは水戸黄門で有名な水戸光圀(みつくに)である。

 「自分におごり、高ぶりが見えたら、いついかなる時もいさめてくれ」と家臣にいつも言っていた自らを厳しく律することのできる名君でもあった。
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2008年7月27日日曜日

秩父観音巡礼に想う 「銀座まるかんの案内板」



 「観音様」の導きに関わると思われる現象がかなり多いため、「秩父観音巡礼に思う」というタイトルははずしていたが、今回はちょっと復活。

 観音様巡りをしていてふと気づき、感心したことがある。

 それは、観音巡礼の34か所あるお寺すべてに銀座まるかんが、「案内板」を寄贈していたことだ。
 1番札所から5、6番札所ぐらいまでは「昔懐かしのアニメの一休さんを模したイラスト付きの案内板があるな~」くらいにしか気にとめていなかったが、案内板の裏側にまるかんの関係者の名前が記されているのが目に入り、それから注意して確認していたら、すべてのお寺にまるかんが寄贈していることがわかった。

 ご存じの方も多いと思うが、銀座まるかんの社長は斉藤一人さんという人で、93年から全国の高額納税者番付で10位以内にただ一人、11年連続で入る。ある意味、歴代の日本人の中でももっともお金に愛された人物のひとりである。
 人として、商人としての生き方、考え方に関する著書も数多く出していて、その多くがユニークで大変におもしろいのでご一読を。

 巡礼地に案内板を寄贈することで営業面での効果を単にねらったものではないということは一人さんの著書を読めばわかる。

 秩父巡礼地という歴史と伝統のある場所は、そう易々とは関わりを持てるものでもない。

 世話になった旅館の女将さんとたわいのない話をしていると、
 「観音様を巡り祈願すると不思議なほど営業ノルマが達成できると言って、休日に観音様をまわっている女性グループがたくさんいますよ」と言っていたこともどこかで関わりがあるのかも知れない。

 観音様は奥が深い。一度の巡礼で見える部分はごく限られたものであると心しよう。

 観音様に対して多くのお年寄りが熱心に手を合わせ祈る横で、今日も一休さんもどきのまるかん案内板がニッコリ笑いかけていることだろう。


 「やる気のある会社の取り組みの凄味をひとつ垣間見たような気がするな~」と思い出しながら改めて感心していたら、仕事で銀座まるかんの前を通ることになってしまった。
 玄関外に無料のくじ引きがあることに気づいた。


 神社でもおみくじを引くことなど滅多にないが、この縁に感謝して引いてみた。

 手にした紙にはこう書かれていた。

 「私は前進します みんなが待っている所まで ひとり」

 なんだか意味深な感じもするが、素直に「よし、前進しよう」と思った。

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2008年7月26日土曜日

夏祭り前夜




 夏祭りのシーズン到来。

 靖国神社の御霊祭りから日本の祭りが始まるという人もあり、そうであれば今年はその始まりに立ち会えたことになるのでうれしい。

 地元でも今日から2日間、夏祭りが始まる。
 この日は毎年、会場に敷物を広げ、酒や肴を持ち寄って、盆踊りを眺めながら、近所の友人、知人らと飲み語らうのが恒例行事となっている。数日前から夏祭りで会いましょうとの声を掛けられる機会が増えて、気分はますます盛り上がってくる。

 午後早い時間から太鼓を打つ音も鳴り響いてくることだろう。本格的な夏の到来を告げる音にも聞こえる。


 2週間ほど前から夏祭りの実行委員の人々が、櫓(やぐら)を組んだり、ちょうちんを下げたりし始めていた。本番3日ほど前には会場の準備もほぼ終了している。

 本番は大いに楽しみだが、個人的に毎年楽しみにしているのが、「祭り前夜」である。

 夏祭りの前の夜、ずらりと下げられたちょうちんすべてに灯がともり、深夜までともされ続けるからだ。

 僕はこの町に移ってきた初めての夏、仕事で遅くなり駅からの暗い夜道を歩いていた。
 帰宅途中にある夏祭り会場のグラウンドまで来た時、数多くのちょうちんの赤っぽい淡い光で煌々(こうこう)と照らされている非日常的な空間が目の前に現れ、僕は驚いてその場に一瞬、立ちつくした。

 誰一人いないグラウンドの隅のベンチに腰掛けて、しばらく何をすることなくその風景を眺めていた。自分だけの空間のような気がして、なんて贅沢なんだろうとその空間にしばし身を任せるままにしていた。

 前夜に深夜近くまでに全てのちょうちんを点灯させている本当の理由は知らないが、たぶん電球のコンディションを確認しているのではないかと思う。

 省エネが声高に言われるご時世になったから、来年もまたこの“前夜”が続けられるかどうかはわからない。今年は写真に納めさせてもらった。

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2008年7月25日金曜日

立花大敬先生の「道」

 
 先日、掲載した立花大敬先生の「食事係の心構え」がおもしろい!との感想を友人がメールで送ってくれたことに勇気を得て、感謝(このツボは自分だけなのかと思っていたのでホントに嬉しかったです!)の気持ちを込めて、立花さんの本の中でもうひとつ僕が心動かされた話をご紹介します。

 立花さんの人となりを知るうえでも、参考になる文章だと思います。

 
 またまたちょっと長いのですが、ご容赦を!



 道

 僕の前に道はない
 僕の後に道はない
 僕の一歩が道となり
 次の一歩が道となる
 僕が道だ
 僕が道だ

 今回はこの詩の意味を考えてみましょう。

 私は若い頃、自分が歩むべき道がわからなかったのです。途方に暮れて、誰か「君の道はこれだ」と教えてくれる人はいないか、自分の道を指示してくれる書物はないかとさがし求め続けました。

 何度も『これだ!』と思いこみ、裏切られるという体験をくりかえしてきて、四十を過ぎてようやく、そんな道なんて実は無かったんだと気づきました。それが、『僕の前には道はない』です。

 なぜないのでしょうか。
 それは実に単純なことで自分は自分であって人ではないからなのです。

 私はイエスでもないし、ブッダでもありません。私は私という、この広い宇宙にたった一つの独自の生命体なのです。

 それは、イエスでもブッダでも同じことです。
 イエスは、イエスという独自の生命体にふさわしい、こうでしかあり得ないという道を歩まれました(そして、今も、もう地球での体験などケロッと忘れて、“今”の道を歩みつづけておられるでしょう)。ブッダもブッダだけが歩み得る道を見事に歩まれました。

 でも、それはイエスの道であり、ブッダの道であったのです。
 それは私の道じゃない。イエスさまの足跡を私がたどって歩いていっても、それによって私といういのちの独自性を発揮することはできません。

 ある有名な禅僧の弟子Aさんがいました。Aさんは師匠がなくなられた時、かたみの老眼鏡をもらったのです。Aさんはその時以来そのメガネをかけはじめたのです。まだ若い人だったのに、お師匠さまのマネをしたいのでしょうね。わざわざ不便をしていたのです。そして、年をとって、「ようやく、師匠のメガネでハッキリモノが見えるようになりました」と喜んでおられました。

 これも何だか変でしょう。イエスの道、ブッダの道をその通り歩もうというのも、これとまったく同じことなのです。人のメガネをかけないで、自分の眼でしっかり見る、あるいは必要なら、自分の今の眼の状態にピッタリのメガネをかけることです。

 モーゼの前に現れた神は『アイアム ザット アイアム』とおっしゃいました。
 これは、平たく訳すと、『私は私だ(オレはオレだ)』という意味です。

 神とは何かというと、そのように、自分が何か外の存在を頼ったり、進むべき道を教えてもらおうと依存せず、自分が自分の今・ココにしっかり腰をすえている、その姿を“神”というのです。

 ホトケ
 ほっとけ
 あんたはあんた

 イエス
 きりすて
 あんたは
 あんた

 私の絵葉書に、子猫を描いて、『へたくそでも自分の足で歩こうね』と買いてあるのがあります。

 私のこれまでの人生の歩みぶりは、紆余曲折(うよきょくせつ、曲がりくねっていること)があって、人から見てずいぶんカッコ悪いものかもしれませんが、私はイエスにしろ、ブッダにしろ、道元禅師にしろ・・・、これらの方々の歩き方をマネしませんでした。

 カッコ悪くても、へたくそでも、自分の足で、自分の判断で、自分の全責任で、一歩、一歩、ヨロヨロでも、オロオロでも、進んできました。
 これが私の生きる道で、これが僕にしか歩めない、僕だけの独自の道であったのです。

 どんなにちっぽけでも
 どんなにみすぼらしくても
 自分でつくったもの
 自分のいのちだから
 湧き出したもの
 それが一番輝いている

 風が吹けば
 転べばいい
 穴があったら
 落ちればいい
 どっちへどう転んでも
 君は君なんだから


 過去にもいろんなことがありました。『生活能力がないヤツ』と言われたり、『三十にもなってウロウロしているのか』としかられたり、軽蔑の眼に出会うことも多かったのですが、これらはすべて過去のことです。過去とは過ぎ去って、もう無いから過去といいます。
 もうないんだから、アカンタレの大敬さん、甲斐性無しの大敬さんも、もう無いのです。
 以前の私は、そんな、人から見た“大敬像”で、自分を決めつけてしまって、そんな“決めつけ”にもとづいて、自分の歩み出す方向を決めるというようなバカなことをしていました。
 四十をすぎて、ようやく『僕の後に道はない』と気づいて、今・ココの自分が、まっ新(さら)な、『はじめの一歩』を踏み出せるようになりました(八十からでも、百歳からでも人は新しく生まれ変わることができます。なぜなら過去はないからです)。

 雲門禅師はある月の十五日の日に、弟子たちに次のように質問されました。
 「十五日以前のことは問わない。十五日以後のことを一言いってみなさい」

 『十五日以前のことは問わない』、過去はもうないんです。以前は社長だった、以前はアカンタレだった・・・、すべてもう消え去ってないのです。
 このように、過去をすべてリセットしてしまって、また、まったく道のない未来の大地に向かって立った今、『君はどのように一歩を踏み出してゆくのか、一言で言ってみなさい』とおっしゃっているのです。

 この方向に踏み出せば、先に毒ヘビがいるかもしれない、この方向に行けば、落とし穴があるかも知れない、こちらに行けば宝物に出会うかもしれない、・・・。

 この雲門さんの問いに対して、弟子たちは答えることができませんでした。
 そこで雲門さんは、「私なら、日々是好日(にちにちこれこうにち)と歩いて行くよ」と答えました。

 どの日も、どの日も好日、最高の日。
 毒ヘビに出会ってよき日、落とし穴に落ち込んでも最高の日!と僕は歩いていくよとおっしゃっているのです。

 私が、人に依存せず、私の全責任で決断し、思い切って踏み出した道、この道はすべての比較を超越して最高の道、絶対の道です。

 わがいのちは強く、たくましいのです。毒ヘビに出会っても、落とし穴におちこんでも、そのことを栄養分に変えて、一層大きく成長していくのです。
 だから、安心して悩んでいい、迷っていい。

 これらすべての経験をふまえて、私たちは必ず、いつの日か、“ひとつのいのち”の故郷(エデンの園)に帰りつくことが決まっているからです。

 今日(きょう)ノ
 生日(いくひ)ノ
 足日(たるひ)ニ
 (祝詞(のりと)の一節より)


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2008年7月24日木曜日

我が家に神棚がやってきた




 我が家に神棚を設けた。
 あまりにも自然な流れでやってくることになったので、これも観音様の導きなのかもしれないなと思った。

 知り合いに神棚を商いとする人が何人かいるが、大きく仰々しいものは意識してやめた。
 「小さくても立派に神棚してます」というタイプの神棚を選んだ。

 またひとつ自分と向き合うよき機会に恵まれたと感謝している。

 これから神棚を持つ生活の始まりである。

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2008年7月23日水曜日

今日が「お金がどんどん入ってくる財布」取り替えの日

 5月に古神道の秘術の中にも「お金がどんどん入ってくる財布」と巡り会う方法があると教わり、ご紹介した。


 この方法は至って簡単で、
 「甲子(きのえね)の日に財布を買うこと(もしくは作ること)」。

 その「甲子の日」が、本日7月23日(水)なのである。

 甲子とは干支(かんし)60通りの中で一番始めに当たる「物事の原点の日」。
 この日を持って新しい財布を手にすると、それまでの苦しい状況ややりくりに困った内実を消し去り、豊かなお金の巡りへと導きがあるのだそうだ。

 ちなみに、次回の「甲子の日」は、約2カ月後の「9月21日」。

 ご興味がある方は「善は急げ」!

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