「シャボン玉」
今日15日は終戦記念日でした。
正午はちょうど電車の中にいましたので、車内で、戦没者の方々への追悼と感謝の想いを胸に、黙とうを捧げさせていただきました。
作家の神渡良平さんが作詞家の野口雨情さんのことを書いている一文を知人が教えてくれました。
この文が、お盆の時期、64回目を迎える終戦記念日とタイミングを同じくして届いたことは、「シンクロ」であろうと強く感じ、大切に受け取らせていただきました。
詩人の野口雨情は若い頃、長い間、芽が出なかった。詩人仲間の三木露風(ろふう)も相馬御風(そうまぎょふう)もどんどん頭角を現し、新聞雑誌に原稿を書き、ラジオにも出演したものの、雨情だけは鳴かず飛ばずだった。
雨情は諦めて樺太に渡り、商売を始めたが、うまくいかず、夜逃げ同然で内地に逃げ帰って、小樽で小さな新聞社に入った。しかし上司とうまくいかず、精魂尽き果ててしまった。そんなある日、初めての子を授かった。女の子だった。
雨情はすっかり元気を取り戻し、その子に緑と名付け、眼に入れても痛くないほどに可愛がった。ところがその子はわずか一週間しか生き長らえることができず、天国に召されてしまったのだ。
失意のどん底に落とされた雨情は新聞社を辞め、札幌に出た。新しい職場を得たものの、うまくいかず、また辞めた。三つ目の職場でもうまくいかず、そこも辞めた。そして負け犬となって故郷の茨城県磯原町に帰り、酒に入り浸る生活になってしまった。自分のことを「花の咲かない枯れススキ」と自嘲(じちょう)していたのだ。
ところが、ある夜、夢の中に娘が現れ、眼に涙をいっぱい浮かべて泣いていた。その顔を見た瞬間、
「これはいかん。このままでは、あの子に合わせる顔がない。わずか一週間しか生きることができず、自分の人生にすら挑戦できなかった娘! それに比べたら自分はどうだ。父母から健康な体をいただき、すでに二十数年の人生を送っていながら、自らの人生を諦め、酒に逃げていた! 何とか、立ち直らなきゃ・・・」
と思った。そこから雨情の立ち直りが始まった。
「緑、お父さんはお前の代わりにいい仕事をするからな。どうか天国から見守って、励ましてくれ!」
こうして作った童謡が人々の心を打ち、作詞家として知られるようになっていった。異国の地に売られていった女の子の寂しい心情を歌った「赤い靴」、カラスのお母さんの愛を歌った「七つの子」も雨情の作詞によるものだが、「シャボン玉」もまた、幼くして死んだ娘に再起を誓った歌である。
シャボン玉飛んだ
屋根まで飛んだ
屋根まで飛んで
こわれて消えた
シャボン玉消えた
飛ばずに消えた
生まれて直ぐに
こわれて消えた
風、風、吹くな
シャボン玉、飛ばそう
以上が、皆さん、ご存じの「シャボン玉」のいわれです。
読み終えて、ふと懐かしくなってひとり口ずさんでいたら、不覚にも涙が込み上げてきました。
緑ちゃんは、さぞかし、お父さんのことが心配で、心配で仕方なかったのでしょうね。
雨情さんが緑ちゃんへの想いの丈を込めてつづった「シャボン玉」の詩が、心の中で幾度もこだまする今日という一日でした。
4 件のコメント:
いいお話をありがとうございました。
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