すべては意(こころ)より成る
お釈迦様の論語といわれる「法句経」は423句で構成されています。
この法句の第一、第二のお言葉にはこうあります。
「意(こころ)こそもと」
すべては意(こころ)より成る 意(こころ)こそすべてのもと
けがれたる意(こころ)もて かたらいまたふるまえば
苦しみはたえまじ わだちの車にそうごとく
すべては意(こころ)より成る 意(こころ)こそすべてのもと
清らかな意(こころ)もて かたらいまたふるまえば
楽しみはつきせず 影の形にそうごとく
お釈迦様は、法句経のまず最初で、人の人生に起こる幸、不幸、運、不運はすべて、自分の意思によって決まっていると説かれているのです。
人生を明るくするのも、暗くするのも、歓びあふれた幸せなものにするにも、暗く悲しく不幸せにするのも自分の意(こころ)次第と宣言しているのです。
そして、
「意(こころ)を言葉にし、行動に表した時に、人生の現われが起こる」
これがこの世の仕組みだと教えてくださっているのです。
この法句は、
汚れた意(こころ)を持って言動し、行動すれば、あなたの人生に苦しみが絶えることはなくなる。それは牛車の車にわだちがぴったりと付き添ってゆくようなものである、と言っています。
その一方で、清らかな意(こころ)を持って言葉とし、行動をすれば、楽しみは尽きることのない人生となる。それはまるで人から決して離れることのない影のように、常に憑き従うのである、と述べられています。
この人生を決定する大切な、意(こころ)を清らかにするためにはどうすればいいのでしょうか。
それは「執着」をしないよう、心掛けていくことです。
イヤなこと、悲しいこと、つらいことが起こっても、それをギュッとつかみ、長く握りしめないようにすることです。
「執着」にからめとられてしまわないようにする、良い方法があります。
私は毎朝、このことを心に宣言しています。
この世を生きて行くのだから、イヤなこと、悲しいこと、つらいことは起こったり、見たり、聞いたりする。その時は、私は、それに対して、しっかりと向き合っていく。
しかし、どんなことに遭おうと、見ようと、聞こうとも、私の心は、決して「汚れる」ことはない。「清い」ままで、いかなることも、何人も汚すことはできない
と宣言し、心に決めるのです。
(このことは「六根清浄(ろっこんしょうじょう)」という祝詞に記されていますので、次回、ご紹介させていただきます)。
臨済宗の山田無文老師が生前、この法句経の“意こそもと”について、ある女性の生き方をあげて、紹介されていらっしゃいました。
長く私の心に残っているお話でしたので、そのままごここで紹介させていただきます。
霊雲院の檀家に、ある夫人がいられる。最も古い目白女子大の出身であるが、今日八十の高齢をもってなお矍鑠(かくしゃく)として家庭裁判所につとめ、社会のひずみを治す医者として、往診に暇ない人である。
結婚して初めて生まれた長男が小児麻痺で、いわゆる精薄児として生まれられた。その子を抱えて若い夫人は、どんなに悩まれたことであろう。
苦悶の末ついに求められたのは宗教であった。まずA宗教の門を叩かれた。その宗教では、「そういう障害のある子供の生まれたことを神の恩寵(おんちょう)だと思え、そのためにあなたが教会へ来て教えを聞くようになったのだから」と教えられたが、いくら考えても、この不憫(ふびん)な幼子を抱いて神の恩寵とは頂けなかった。
次にB宗教に走ると、その宗教では「それは先祖を祭っていない祟(たた)りだから、先祖の霊を厚く弔(ともら)え」と教えられたが、これも納得いかなかった。もし自分が先祖だったら、どんなに苦しくても、子孫に祟(たた)るような非情なことはしないであろう。
最後に、主人の坐禅の師である霊雲院の宗徹和尚のところへ連れてこられた。宗徹和尚は茶を呑みながら、いとも無造作に「それはなあ、仏さまからのおあずかりした大切な子じゃぜ、大事にしてあげや」と言われた。
その一言で、あれほど悩み抜いた夫人の意(こころ)が初めて納得いったというのである。禅というものは難しいものだとばかり敬遠して、主人がいくら奨めてもお訪ねする気になれなかったが、たったこの一言で一切の悩みが解決したのである。
仏さまからおあずかりした子なら自分の責任ではない。大事にしてあげましょうと、安心して育てられるようになった。そして後から生まれる子供たちにもよく言い聞かせ、「兄さんは仏さまからおあずかりした大切な兄さんだから、大事にしましょう」と言うて、家中で温かく育てられた。
今日五十すぎても、よだれをくって「ああ! ああ!」と言うておるような兄さんであるが、みんなが大事にして、ご家庭の中は至極円満で、老後を楽しんでいられるのである。先日、久しぶりにお目にかかると、「この頃は兄ちゃんが一番よく働いてくれます」と言われる。それは近年小児麻痺や精薄児を抱えたお母さん方が多くなって、「いっそ、この子と心中してしまいたい」ほど悩まれた揚句、この兄ちゃんの話を聞いて、わざわざ訪ねて来られ、その幸福な姿を見て、みんな感激し、母も子も救われるというのである。
障害のある子を持って、それを仏さまのおあずかり子と正直に受け取り、温かく育てられた、夫人の意(こころ)こそ清らかであったと思う。幸福は影の如く、今も夫人の姿に添うて離れない。
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