すべては意(こころ)より成る
お釈迦様の論語といわれる「法句経」は423句で構成されています。
この法句の第一、第二のお言葉にはこうあります。
「意(こころ)こそもと」
すべては意(こころ)より成る 意(こころ)こそすべてのもと
けがれたる意(こころ)もて かたらいまたふるまえば
苦しみはたえまじ わだちの車にそうごとく
すべては意(こころ)より成る 意(こころ)こそすべてのもと
清らかな意(こころ)もて かたらいまたふるまえば
楽しみはつきせず 影の形にそうごとく
お釈迦様は、法句経のまず最初で、人の人生に起こる幸、不幸、運、不運はすべて、自分の意思によって決まっていると説かれているのです。
人生を明るくするのも、暗くするのも、歓びあふれた幸せなものにするにも、暗く悲しく不幸せにするのも自分の意(こころ)次第と宣言しているのです。
そして、
「意(こころ)を言葉にし、行動に表した時に、人生の現われが起こる」
これがこの世の仕組みだと教えてくださっているのです。
この法句は、
汚れた意(こころ)を持って言動し、行動すれば、あなたの人生に苦しみが絶えることはなくなる。それは牛車の車にわだちがぴったりと付き添ってゆくようなものである、と言っています。
その一方で、清らかな意(こころ)を持って言葉とし、行動をすれば、楽しみは尽きることのない人生となる。それはまるで人から決して離れることのない影のように、常に憑き従うのである、と述べられています。
この人生を決定する大切な、意(こころ)を清らかにするためにはどうすればいいのでしょうか。
それは「執着」をしないよう、心掛けていくことです。
イヤなこと、悲しいこと、つらいことが起こっても、それをギュッとつかみ、長く握りしめないようにすることです。
「執着」にからめとられてしまわないようにする、良い方法があります。
私は毎朝、このことを心に宣言しています。
この世を生きて行くのだから、イヤなこと、悲しいこと、つらいことは起こったり、見たり、聞いたりする。その時は、私は、それに対して、しっかりと向き合っていく。
しかし、どんなことに遭おうと、見ようと、聞こうとも、私の心は、決して「汚れる」ことはない。「清い」ままで、いかなることも、何人も汚すことはできない
と宣言し、心に決めるのです。
(このことは「六根清浄(ろっこんしょうじょう)」という祝詞に記されていますので、次回、ご紹介させていただきます)。
臨済宗の山田無文老師が生前、この法句経の“意こそもと”について、ある女性の生き方をあげて、紹介されていらっしゃいました。
長く私の心に残っているお話でしたので、そのままごここで紹介させていただきます。
霊雲院の檀家に、ある夫人がいられる。最も古い目白女子大の出身であるが、今日八十の高齢をもってなお矍鑠(かくしゃく)として家庭裁判所につとめ、社会のひずみを治す医者として、往診に暇ない人である。
結婚して初めて生まれた長男が小児麻痺で、いわゆる精薄児として生まれられた。その子を抱えて若い夫人は、どんなに悩まれたことであろう。
苦悶の末ついに求められたのは宗教であった。まずA宗教の門を叩かれた。その宗教では、「そういう障害のある子供の生まれたことを神の恩寵(おんちょう)だと思え、そのためにあなたが教会へ来て教えを聞くようになったのだから」と教えられたが、いくら考えても、この不憫(ふびん)な幼子を抱いて神の恩寵とは頂けなかった。
次にB宗教に走ると、その宗教では「それは先祖を祭っていない祟(たた)りだから、先祖の霊を厚く弔(ともら)え」と教えられたが、これも納得いかなかった。もし自分が先祖だったら、どんなに苦しくても、子孫に祟(たた)るような非情なことはしないであろう。
最後に、主人の坐禅の師である霊雲院の宗徹和尚のところへ連れてこられた。宗徹和尚は茶を呑みながら、いとも無造作に「それはなあ、仏さまからのおあずかりした大切な子じゃぜ、大事にしてあげや」と言われた。
その一言で、あれほど悩み抜いた夫人の意(こころ)が初めて納得いったというのである。禅というものは難しいものだとばかり敬遠して、主人がいくら奨めてもお訪ねする気になれなかったが、たったこの一言で一切の悩みが解決したのである。
仏さまからおあずかりした子なら自分の責任ではない。大事にしてあげましょうと、安心して育てられるようになった。そして後から生まれる子供たちにもよく言い聞かせ、「兄さんは仏さまからおあずかりした大切な兄さんだから、大事にしましょう」と言うて、家中で温かく育てられた。
今日五十すぎても、よだれをくって「ああ! ああ!」と言うておるような兄さんであるが、みんなが大事にして、ご家庭の中は至極円満で、老後を楽しんでいられるのである。先日、久しぶりにお目にかかると、「この頃は兄ちゃんが一番よく働いてくれます」と言われる。それは近年小児麻痺や精薄児を抱えたお母さん方が多くなって、「いっそ、この子と心中してしまいたい」ほど悩まれた揚句、この兄ちゃんの話を聞いて、わざわざ訪ねて来られ、その幸福な姿を見て、みんな感激し、母も子も救われるというのである。
障害のある子を持って、それを仏さまのおあずかり子と正直に受け取り、温かく育てられた、夫人の意(こころ)こそ清らかであったと思う。幸福は影の如く、今も夫人の姿に添うて離れない。
2009年8月9日日曜日
真言(マントラ)の不思議
この1カ月ほど、毎週末に埼玉・秩父に観音様を訪ねています。
観音様にお逢いし、頭を垂れ、まず最初に唱えるのが「真言(マントラ)」です。
真言密教を日本に中国から持ってきたのが空海さんです。
密教は悟りを開いた人への教えとして伝わってきました(悟りを開く前の人には顕教(けんきょう)という教えがあります)。
この密教が伝える真言には大変に不思議な力があります。
空海さんに関わる真言として有名なのが、
「虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)様」の真言です。
「のうぼう あぎゃしゃ ぎゃらばや おんまりきゃ まりぼり そわか」
これを100万回唱えると抜群の記憶力がもたらされ、仏典をすべて理解できるようになると言われています。
空海さんはこれを四国の室戸岬で唱え続け、100万回唱え終えた時、悟りを開きます。
悟った瞬間、最初に目に飛び込んできた洞窟の先に広がる「空」と「海」を見つめて、今日から「空海」として生きていこうと決心します。
私はこの話を聞いて、故郷の青い空と海が思い出され、懐かしさが込み上げてきて、むしょうに帰りたくなったことを覚えています。
ただ、この虚空蔵菩薩様の真言を100万回唱えると誰でも悟りを開けるわけではないようです。実際、空海さんが悟りを開くまで、この真言によって誰一人として悟りを開けた人はいませんでした。
真言は、唱える人の「執着」の度合いによって、叶える力が異なるといわれています。
空海さんは、きっと人並み外れて執着の少ない人だったのでしょうね。
私は、観音様巡りで、般若心経を唱えます。
般若心経の要諦は、最後の真言にあるとおっしゃる方がいらっしゃいます。
「羯諦(ぎゃてい) 羯諦(ぎゃてい) 波羅羯諦(はらぎゃてい) 波羅僧羯諦(はらそうぎゃてい) 菩提薩婆訶(ぼじそわか)」
この真言を唱えるだけで、願い、想いが叶うというわけです。
お経の中には読んでみようとして、まったく読み方がわからない言葉がたくさんありますが、この真言もまさにそうです。
実は、真言には、翻訳したり、講釈したりしてはならないというしきたりが古くからあるのです。
このため、中国の聖人たちは、インドの梵語(ぼんご)の“音”を苦労しながら漢字に当てはめて書き写していきました。
般若心経をインドから中国に持ってきた玄奘三蔵(げんじょうさんぞう=三蔵法師)様の弟子の慈恩大師も、「インドの正音は、秘密の句であり、翻訳すると霊験はなくなる。だから梵語のままにしてあるのだ」とおっしゃっています。
ですから、般若心経の最後の真言も、梵語の“音”をそのまま漢字に当てはめているので、あのように不思議な表記になるのですね。
さて、この真言の不思議な力、願いを叶える素晴らしい力について、日本には数多く面白い話が残されています。
その中からひとつご紹介したいと思います。
真言は、執着の度合いによって叶えられる力が異なってくることとは別に、唱える人がその意味を知っていてもいなくても差し支えないという特徴があります。
知らなくてもひたすらその霊験を鏡のような心になって、一心に信じ切って唱えると素晴らしい効果が発揮されるのです。
そういう意味では「素直」という要素が重要なのかもしれません。
昔、四国にあらゆる病気を治すと評判の老婆がいました。
その治し方が大変不思議で、患者に触れることもなく、老婆が呪文を唱えると、その瞬間に病気がぱたっと治ってしまうのです。
その呪文がまたとてもかわっています。
「大麦小麦二升五合」
と唱えるだけなのです。
そんなある日のこと。お節介な坊さんが現われて、老婆にこう言いました。
「あんたが唱えているのは、金剛経のなかの『応無所在、而生其心(おうむしょじょう、にしょうごしん)』という句があって、それの覚えぞこないだよ」
そうしたところ、老婆のまじないはそれからパタリと効かなくなってしまったそうです。
一心に信じ切っていた想いが、坊さんのひと言によって心の中に羞恥心が生まれ、曇らせて、霊験をなくしてしまったのですね。
悟りを開いて神様のようになっていなくても、真言の叶える力は素晴らしいものがあります。
この世はやはり「人の世」です。悟りに達しなくても、願いがあり、それを叶えるために一所懸命に唱えてきた人がどれだけたくさん過去にいらっしゃったことでしょう。
また、数々の聖人、神人といわれる方々が、真言を唱えることで、“願いが叶う道”を拓いてくださっています。
般若心経もそうですが、唱えると、一瞬にして、この願いが叶う道につながるようになっているのです。
日ごろから執着をなくすよう心がけていくとなおさら願い事が叶うスピードが増していきます。
執着は“私”であり、“私”が入ると“欲”が曇りとなりますから、どうしても真っ直ぐに伝わらなくなります。
日ごろから自分(私)に関わりのある人の幸せだけでなく、今は関わっていない人、いつかは関わるだろう人、今世では関わらないけど、来世以降では関わる人、過去世でお世話になって人(このへんまで含めてくると、「すべての人」になってきます)の幸せを祈る習慣を週一回でも二回でもつくっておくといいかもしれません。
私もすべての人が、そして、ブログで出逢った皆さんが元気で、幸せでありますように、と毎朝晩、祈っています。
良き日々をお過ごしくださいね。
この1カ月ほど、毎週末に埼玉・秩父に観音様を訪ねています。
観音様にお逢いし、頭を垂れ、まず最初に唱えるのが「真言(マントラ)」です。
真言密教を日本に中国から持ってきたのが空海さんです。
密教は悟りを開いた人への教えとして伝わってきました(悟りを開く前の人には顕教(けんきょう)という教えがあります)。
この密教が伝える真言には大変に不思議な力があります。
空海さんに関わる真言として有名なのが、
「虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)様」の真言です。
「のうぼう あぎゃしゃ ぎゃらばや おんまりきゃ まりぼり そわか」
これを100万回唱えると抜群の記憶力がもたらされ、仏典をすべて理解できるようになると言われています。
空海さんはこれを四国の室戸岬で唱え続け、100万回唱え終えた時、悟りを開きます。
悟った瞬間、最初に目に飛び込んできた洞窟の先に広がる「空」と「海」を見つめて、今日から「空海」として生きていこうと決心します。
私はこの話を聞いて、故郷の青い空と海が思い出され、懐かしさが込み上げてきて、むしょうに帰りたくなったことを覚えています。
ただ、この虚空蔵菩薩様の真言を100万回唱えると誰でも悟りを開けるわけではないようです。実際、空海さんが悟りを開くまで、この真言によって誰一人として悟りを開けた人はいませんでした。
真言は、唱える人の「執着」の度合いによって、叶える力が異なるといわれています。
空海さんは、きっと人並み外れて執着の少ない人だったのでしょうね。
私は、観音様巡りで、般若心経を唱えます。
般若心経の要諦は、最後の真言にあるとおっしゃる方がいらっしゃいます。
「羯諦(ぎゃてい) 羯諦(ぎゃてい) 波羅羯諦(はらぎゃてい) 波羅僧羯諦(はらそうぎゃてい) 菩提薩婆訶(ぼじそわか)」
この真言を唱えるだけで、願い、想いが叶うというわけです。
お経の中には読んでみようとして、まったく読み方がわからない言葉がたくさんありますが、この真言もまさにそうです。
実は、真言には、翻訳したり、講釈したりしてはならないというしきたりが古くからあるのです。
このため、中国の聖人たちは、インドの梵語(ぼんご)の“音”を苦労しながら漢字に当てはめて書き写していきました。
般若心経をインドから中国に持ってきた玄奘三蔵(げんじょうさんぞう=三蔵法師)様の弟子の慈恩大師も、「インドの正音は、秘密の句であり、翻訳すると霊験はなくなる。だから梵語のままにしてあるのだ」とおっしゃっています。
ですから、般若心経の最後の真言も、梵語の“音”をそのまま漢字に当てはめているので、あのように不思議な表記になるのですね。
さて、この真言の不思議な力、願いを叶える素晴らしい力について、日本には数多く面白い話が残されています。
その中からひとつご紹介したいと思います。
真言は、執着の度合いによって叶えられる力が異なってくることとは別に、唱える人がその意味を知っていてもいなくても差し支えないという特徴があります。
知らなくてもひたすらその霊験を鏡のような心になって、一心に信じ切って唱えると素晴らしい効果が発揮されるのです。
そういう意味では「素直」という要素が重要なのかもしれません。
昔、四国にあらゆる病気を治すと評判の老婆がいました。
その治し方が大変不思議で、患者に触れることもなく、老婆が呪文を唱えると、その瞬間に病気がぱたっと治ってしまうのです。
その呪文がまたとてもかわっています。
「大麦小麦二升五合」
と唱えるだけなのです。
そんなある日のこと。お節介な坊さんが現われて、老婆にこう言いました。
「あんたが唱えているのは、金剛経のなかの『応無所在、而生其心(おうむしょじょう、にしょうごしん)』という句があって、それの覚えぞこないだよ」
そうしたところ、老婆のまじないはそれからパタリと効かなくなってしまったそうです。
一心に信じ切っていた想いが、坊さんのひと言によって心の中に羞恥心が生まれ、曇らせて、霊験をなくしてしまったのですね。
悟りを開いて神様のようになっていなくても、真言の叶える力は素晴らしいものがあります。
この世はやはり「人の世」です。悟りに達しなくても、願いがあり、それを叶えるために一所懸命に唱えてきた人がどれだけたくさん過去にいらっしゃったことでしょう。
また、数々の聖人、神人といわれる方々が、真言を唱えることで、“願いが叶う道”を拓いてくださっています。
般若心経もそうですが、唱えると、一瞬にして、この願いが叶う道につながるようになっているのです。
日ごろから執着をなくすよう心がけていくとなおさら願い事が叶うスピードが増していきます。
執着は“私”であり、“私”が入ると“欲”が曇りとなりますから、どうしても真っ直ぐに伝わらなくなります。
日ごろから自分(私)に関わりのある人の幸せだけでなく、今は関わっていない人、いつかは関わるだろう人、今世では関わらないけど、来世以降では関わる人、過去世でお世話になって人(このへんまで含めてくると、「すべての人」になってきます)の幸せを祈る習慣を週一回でも二回でもつくっておくといいかもしれません。
私もすべての人が、そして、ブログで出逢った皆さんが元気で、幸せでありますように、と毎朝晩、祈っています。
良き日々をお過ごしくださいね。
2009年8月2日日曜日
すべては「ひとついのち(ワンネス)」。すべての原因は自分の内にある
この世のものはすべて、「ひとついのち」です。
周りにいる他人も、動物も、植物も、物も、目にするすべてが関わりがあり、つながりを持っていて、自分とひとつのいのちになっています。
このことを「ワンネス」とも言うようです。
「身近な愛おしい人は『ひとついのち』になりたいけど、職場のイヤなあの人は『ひとついのち』なんかじゃない」というのは、その気持ちはわかりますが、やはりちょっと違うようです。
すべては「ひとついのち(ワンネス)」とわかると、自分の身の回りで起こることはすべて自分に<原因>があるということがわかってきます。
でも、すべては「ひとついのち」であることがわかってからでないと、すべての問題の原因が自分であると理解するのはなかなか難しいようです。
「自分という個」と、それに対する「他の個」「その他大勢」という構図では、自分の問題は人や周りのせいにしたくなりますし、人の問題まで自分が原因であるとは許容できないものだからです。
ましてや、他人から「すべての原因はあなたにある」「あなたの周りの問題は、すべてあなたに原因がある」なんて唐突に言われると、無性に腹が立ったり、聞く耳を無くしたりして、とてもじゃありませんが素直には受け入れられないものです。
それでも、この世が「ひとついのち(ワンネス)」であることに気づくように、神人、聖人といわれた人々が説いてきたのには、それ相応の理由があるのです。
自分の目の前に現れをすべて自分のこと(自分が原因である)と認め、お詫びし、感謝し、愛すると、人生が幸せに、良き方向に変わっていくからです。
不思議なほど、目に見えて良き現われが起こるようになるのです。
このすべての原因が自分の内にあるということについて、とてもわかりやすく教えてくれる話があります。中国であった実話です。
ずいぶん前に読んだのですが、どこかに書かれていたのかなかなか見つけられずにいたのですが、ハートさんからブログにプレゼントをいただき、お礼の記事を書く時に、ふと手に取った本にその話を見つけることができました。ハートさん、気づきと導きをいただきましたことに、心から感謝いたします。
この話は、心理学者のカール・ユングの友人で、宣教師として中国に渡り、「易経」などを翻訳しヨーロッパに伝えたリヒアルト・ヴィルヘルムという人が、中国で実際に体験したお話です。
私はこれまでに幾度かこの話を聞く機会があったのですが、立花大敬先生の記事が読んで一番、コトリと心の中に落ちるものがあり、納得できましたので、そのままご紹介させていただきたいと思います。
彼がある地方にいた時、その土地は大旱魃(かんばつ)でした。もう何ヶ月も雨が降らず、田畑の植物は干(ひあ)上がって、枯死(こし)寸前でした。
そこで農民たちが相談して、雨降らしの名人という評判の人を招きました。
数日後、その名人がやってきました。
見たところ、本当にみすぼらしい、ヨボヨボの老人で、ヴィルヘルムにはとても、その老人がそんな特殊な能力の持主のようにはみえませんでした。
その老人は、一軒の家の提供と日に三度の食事の差し入れを要求して、その家にとじこもってしまいました。
中の様子をうかがっても、しんと静まりかえっており、太鼓や鉦(かね)をたたいて祈ったり、お経を上げたり、呪文をとなえたりしているようにはみえませんでした。
ところが、三日目に突然雲があつまって、ド、ドッと大雨が降り、農民たちは大喜びで雨の中で踊りまわったそうです。
ヴィルヘルムは家から出てきた、その雨降らしの名人に、「いったいどうして雨を降らせたのですか」とたずねました。老人は次のように答えました。「私は雨を降らせようとしたわけじゃありませんよ。
この土地にやって来た時、この土地がこんなにも干枯(ひから)びているのは、私の心がうるおいを失って砂漠化しているせいだとわかりました。
それで私は家に閉じこもって、この土地をこんなにしてしまった私のあやまりをおわびしました。おわびの心が深くなってゆくにつれて、私の心にうるおいがもどって来、心の乱れが整理されて調和のとれた姿となってゆきました。
そして、それ(その心の状態)が本物になった時、この土地の不調和の状態もおしまいになり雨が降ったのです。
私は決して雨を降らそうと思ったわけじゃないのですよ」
身の回りで起こったことを変えたい時、その原因は自らの内にすべてはあります。
この中国の老人は枯れた天候でさえ、自らの心がうるおいを失っていたからだと、すべてを自分のことと受け止めています。
自らで、すべての元は自分にあり、と受け止めて(ひとついのちを理解できると自然に、当然自分の責任!と感じられるようになります)、自分の心の内で、お詫びし、感謝し、愛して、豊かな心に変えていけばいいのです。
自分がすべてに責任を負えるから、人生をガラリと明るく澄みきった歓びにあふれたものに、変えていけるんですね。
「目の前に広がる世界は、すべて自分のものなのです」。
「すべては私に責任がある!」と自ら進んで宣言できた時、本当の意味での「自分の人生」が始まるのではないでしょうか。
この世のものはすべて、「ひとついのち」です。
周りにいる他人も、動物も、植物も、物も、目にするすべてが関わりがあり、つながりを持っていて、自分とひとつのいのちになっています。
このことを「ワンネス」とも言うようです。
「身近な愛おしい人は『ひとついのち』になりたいけど、職場のイヤなあの人は『ひとついのち』なんかじゃない」というのは、その気持ちはわかりますが、やはりちょっと違うようです。
すべては「ひとついのち(ワンネス)」とわかると、自分の身の回りで起こることはすべて自分に<原因>があるということがわかってきます。
でも、すべては「ひとついのち」であることがわかってからでないと、すべての問題の原因が自分であると理解するのはなかなか難しいようです。
「自分という個」と、それに対する「他の個」「その他大勢」という構図では、自分の問題は人や周りのせいにしたくなりますし、人の問題まで自分が原因であるとは許容できないものだからです。
ましてや、他人から「すべての原因はあなたにある」「あなたの周りの問題は、すべてあなたに原因がある」なんて唐突に言われると、無性に腹が立ったり、聞く耳を無くしたりして、とてもじゃありませんが素直には受け入れられないものです。
それでも、この世が「ひとついのち(ワンネス)」であることに気づくように、神人、聖人といわれた人々が説いてきたのには、それ相応の理由があるのです。
自分の目の前に現れをすべて自分のこと(自分が原因である)と認め、お詫びし、感謝し、愛すると、人生が幸せに、良き方向に変わっていくからです。
不思議なほど、目に見えて良き現われが起こるようになるのです。
このすべての原因が自分の内にあるということについて、とてもわかりやすく教えてくれる話があります。中国であった実話です。
ずいぶん前に読んだのですが、どこかに書かれていたのかなかなか見つけられずにいたのですが、ハートさんからブログにプレゼントをいただき、お礼の記事を書く時に、ふと手に取った本にその話を見つけることができました。ハートさん、気づきと導きをいただきましたことに、心から感謝いたします。
この話は、心理学者のカール・ユングの友人で、宣教師として中国に渡り、「易経」などを翻訳しヨーロッパに伝えたリヒアルト・ヴィルヘルムという人が、中国で実際に体験したお話です。
私はこれまでに幾度かこの話を聞く機会があったのですが、立花大敬先生の記事が読んで一番、コトリと心の中に落ちるものがあり、納得できましたので、そのままご紹介させていただきたいと思います。
彼がある地方にいた時、その土地は大旱魃(かんばつ)でした。もう何ヶ月も雨が降らず、田畑の植物は干(ひあ)上がって、枯死(こし)寸前でした。
そこで農民たちが相談して、雨降らしの名人という評判の人を招きました。
数日後、その名人がやってきました。
見たところ、本当にみすぼらしい、ヨボヨボの老人で、ヴィルヘルムにはとても、その老人がそんな特殊な能力の持主のようにはみえませんでした。
その老人は、一軒の家の提供と日に三度の食事の差し入れを要求して、その家にとじこもってしまいました。
中の様子をうかがっても、しんと静まりかえっており、太鼓や鉦(かね)をたたいて祈ったり、お経を上げたり、呪文をとなえたりしているようにはみえませんでした。
ところが、三日目に突然雲があつまって、ド、ドッと大雨が降り、農民たちは大喜びで雨の中で踊りまわったそうです。
ヴィルヘルムは家から出てきた、その雨降らしの名人に、「いったいどうして雨を降らせたのですか」とたずねました。老人は次のように答えました。「私は雨を降らせようとしたわけじゃありませんよ。
この土地にやって来た時、この土地がこんなにも干枯(ひから)びているのは、私の心がうるおいを失って砂漠化しているせいだとわかりました。
それで私は家に閉じこもって、この土地をこんなにしてしまった私のあやまりをおわびしました。おわびの心が深くなってゆくにつれて、私の心にうるおいがもどって来、心の乱れが整理されて調和のとれた姿となってゆきました。
そして、それ(その心の状態)が本物になった時、この土地の不調和の状態もおしまいになり雨が降ったのです。
私は決して雨を降らそうと思ったわけじゃないのですよ」
身の回りで起こったことを変えたい時、その原因は自らの内にすべてはあります。
この中国の老人は枯れた天候でさえ、自らの心がうるおいを失っていたからだと、すべてを自分のことと受け止めています。
自らで、すべての元は自分にあり、と受け止めて(ひとついのちを理解できると自然に、当然自分の責任!と感じられるようになります)、自分の心の内で、お詫びし、感謝し、愛して、豊かな心に変えていけばいいのです。
自分がすべてに責任を負えるから、人生をガラリと明るく澄みきった歓びにあふれたものに、変えていけるんですね。
「目の前に広がる世界は、すべて自分のものなのです」。
「すべては私に責任がある!」と自ら進んで宣言できた時、本当の意味での「自分の人生」が始まるのではないでしょうか。
2009年7月16日木曜日
「腹八分目」は神様への感謝につながります
「腹八分目」が大切であると言われますが、これは食べ過ぎないことが健康や美容に良いということだけでなく、それ以上に大切な意味があります。
一升の食べ物が目の前にあれば、それをすぐにすべてを自らの口に入れるのではなく、まず先に「二分」を神様に捧げるという天地自然への「感謝」の気持ちが大切なんですよと教えてくれているのです。
また、食べ過ぎない習慣を持つと運命もよくなるようです。
それ以上に怖いのは、腹一杯食べる習慣をつけた人には低級霊が憑(つ)きやすくなります。
この世を去り肉体はなくなったのに、食べることに未練を持ち、執着している低級霊が生きている人に乗り移り、その人の身体を借りて、自分の口に食べ物を入れようとするのです。
このことは日本と世界の未来を予見した書として有名な岡本天明氏が自動書記した「日月神示(ひつきしんじ)」にも次のように紹介されています。
「食物、食べ過ぎるから病になるのぢゃ。不運となるのぢゃ。
腹十分食べてこぼれる、運はつまってひらけん。この判りきったこと、何故に判らんのぢゃ。ツキモノがたらふく食べていることに気づかんのか。食べ物接すればツキモノ改心するぞ」
自分に憑いている憑依霊まで改心できると記されていますね。
ダイエットできて、低級霊からの憑依から免れ、憑いてしまっていても改心させられて、何といっても神様への感謝につながるのですから「腹八分目」は言うことないですね!
「腹八分目」でみんなで幸せになりましょう。
「腹八分目」が大切であると言われますが、これは食べ過ぎないことが健康や美容に良いということだけでなく、それ以上に大切な意味があります。
一升の食べ物が目の前にあれば、それをすぐにすべてを自らの口に入れるのではなく、まず先に「二分」を神様に捧げるという天地自然への「感謝」の気持ちが大切なんですよと教えてくれているのです。
また、食べ過ぎない習慣を持つと運命もよくなるようです。
それ以上に怖いのは、腹一杯食べる習慣をつけた人には低級霊が憑(つ)きやすくなります。
この世を去り肉体はなくなったのに、食べることに未練を持ち、執着している低級霊が生きている人に乗り移り、その人の身体を借りて、自分の口に食べ物を入れようとするのです。
このことは日本と世界の未来を予見した書として有名な岡本天明氏が自動書記した「日月神示(ひつきしんじ)」にも次のように紹介されています。
「食物、食べ過ぎるから病になるのぢゃ。不運となるのぢゃ。
腹十分食べてこぼれる、運はつまってひらけん。この判りきったこと、何故に判らんのぢゃ。ツキモノがたらふく食べていることに気づかんのか。食べ物接すればツキモノ改心するぞ」
自分に憑いている憑依霊まで改心できると記されていますね。
ダイエットできて、低級霊からの憑依から免れ、憑いてしまっていても改心させられて、何といっても神様への感謝につながるのですから「腹八分目」は言うことないですね!
「腹八分目」でみんなで幸せになりましょう。
2008年9月13日土曜日
「幸せのソフト」インプット記念日
毎朝続けている日課がいくつかある。
朝日を拝む「日拝」や守護霊へのあいさつ、般若心経を唱えることなどと共に日課としているのが、
中川昌蔵さんが提唱されている
「幸福になるためのソフト」の暗唱である。
今日一日、親切にしようと想う。
今日一日、明るく朗らかにしようと想う。
今日一日、謙虚にしようと想う。
今日一日、素直になろうと想う。
今日一日、感謝をしようと想う。
人によっては「こんな当たり前のことを毎朝、暗唱してるの?」と言われるかもしれないが、僕なりにいろんなことを学んできた中で、この5箇条のシンプルな言葉を我が身に刷り込ませることは、これから生きていく上でとても大切なことであるとの直感があったので即、半紙に筆で書き記し、トイレの中の目に付くところに貼り付けた。
さらに魅了されたのが、その方法論で、以前にもご紹介したが、中川さんが、「この『幸せのソフト』は実行してはダメ、意識して実行すると失敗する」とおっしゃっている点である。
その理由を中川さんは、「なぜかというと、コンピューターというハードにはソフトが不可欠なように、人間は肉体というハードがあり、そのハードにもソフトが不可欠なのです。親切というソフトが必要なのですが、ソフトをつくる前に人に親切にしたら失敗してしまうのです」
「現代人の右脳はよく働かなくなっているが、それは物質世界の中で育ち、小学校から大学まで理論や数学や権利意識ばかり教育して左脳人間を作り上げた結果である」
「だから右脳にソフトをインプットすることが必要になってきたのである」
と自著「不運より脱する運命の法則」の中で説明している。
頭で考えてから行動が起こるのではなく、心が対象をとらえた瞬間に身体が自然に動くようになってはじめてこの「幸せのソフト」のインプットが完了したことになるのだ、と僕なりに解釈させてもらった。
いつかはそんな日がくればいいなと楽しみにしながら日課としてきたわけだが、
先週、「あれ、これは『幸せのソフト』がインプットされたのかも!?」と思う体験をした。
どういうことをしたのかについて細かに書くのは気恥ずかしいので止すが、電車の中で、そしてその電車を降りて公共施設の建物の前で、困っている人がいるのに立ち会い手助けすることができたのだ。
その時、いずれも頭の中で「どうしようかな」「こうしてあげると助けられるかな」と考え、「そうしてあげよう」と決めて身体が動いたわけではなく、
困った人を見た瞬間、身体が動いていて、手助けを終えたあとで、「あれっ、身体が勝手に動いた~」と自分に驚いてしまうという体験であった。
こんな体験は初めてのことであり、しかも1時間ほどの間に2度も続いたので、
「もしかしたら幸せのソフトがインプットされたのかな?今日は記念日かもしれない」とひとり喜んだという次第である。
まあ、本当にインプットを終えたとしても「心の鏡」が曇っているような時には起動しないだろうから、これからも良き心がけが必要であろう。
もちろん「幸せのソフト」を暗唱する日課も続けていくつもりである。
朝日を拝む「日拝」や守護霊へのあいさつ、般若心経を唱えることなどと共に日課としているのが、
中川昌蔵さんが提唱されている
「幸福になるためのソフト」の暗唱である。
今日一日、親切にしようと想う。
今日一日、明るく朗らかにしようと想う。
今日一日、謙虚にしようと想う。
今日一日、素直になろうと想う。
今日一日、感謝をしようと想う。
人によっては「こんな当たり前のことを毎朝、暗唱してるの?」と言われるかもしれないが、僕なりにいろんなことを学んできた中で、この5箇条のシンプルな言葉を我が身に刷り込ませることは、これから生きていく上でとても大切なことであるとの直感があったので即、半紙に筆で書き記し、トイレの中の目に付くところに貼り付けた。
さらに魅了されたのが、その方法論で、以前にもご紹介したが、中川さんが、「この『幸せのソフト』は実行してはダメ、意識して実行すると失敗する」とおっしゃっている点である。
その理由を中川さんは、「なぜかというと、コンピューターというハードにはソフトが不可欠なように、人間は肉体というハードがあり、そのハードにもソフトが不可欠なのです。親切というソフトが必要なのですが、ソフトをつくる前に人に親切にしたら失敗してしまうのです」
「現代人の右脳はよく働かなくなっているが、それは物質世界の中で育ち、小学校から大学まで理論や数学や権利意識ばかり教育して左脳人間を作り上げた結果である」
「だから右脳にソフトをインプットすることが必要になってきたのである」
と自著「不運より脱する運命の法則」の中で説明している。
頭で考えてから行動が起こるのではなく、心が対象をとらえた瞬間に身体が自然に動くようになってはじめてこの「幸せのソフト」のインプットが完了したことになるのだ、と僕なりに解釈させてもらった。
いつかはそんな日がくればいいなと楽しみにしながら日課としてきたわけだが、
先週、「あれ、これは『幸せのソフト』がインプットされたのかも!?」と思う体験をした。
どういうことをしたのかについて細かに書くのは気恥ずかしいので止すが、電車の中で、そしてその電車を降りて公共施設の建物の前で、困っている人がいるのに立ち会い手助けすることができたのだ。
その時、いずれも頭の中で「どうしようかな」「こうしてあげると助けられるかな」と考え、「そうしてあげよう」と決めて身体が動いたわけではなく、
困った人を見た瞬間、身体が動いていて、手助けを終えたあとで、「あれっ、身体が勝手に動いた~」と自分に驚いてしまうという体験であった。
こんな体験は初めてのことであり、しかも1時間ほどの間に2度も続いたので、
「もしかしたら幸せのソフトがインプットされたのかな?今日は記念日かもしれない」とひとり喜んだという次第である。
まあ、本当にインプットを終えたとしても「心の鏡」が曇っているような時には起動しないだろうから、これからも良き心がけが必要であろう。
もちろん「幸せのソフト」を暗唱する日課も続けていくつもりである。
2008年9月12日金曜日
何気ない思い込みで60%の人が良くもなるし悪くもなく「プラシーボ効果」
「プラシーボ効果」というものがある。
権威のある先生がうどん粉を「これは身体に大変よく効く薬ですよ」と患者さんに言えば、約60%の人には効いてしまうことを「プラシーボ効果」という。
聞くところによると、新薬の効果はプラシーボ効果に5%を上乗せした65%に効けば認められるということになっているらしい。
人は少なくとも「なにげない気持ち」「思い込み」だけで60%の人がかなり瞬時に「良く」もなるし、「悪く」もなるということらしい。
無意識下の「潜在意識」が影響を受けるということなので、結構面倒な話のような気がする。
ひとつの対処法は、近くで悪口、陰口、愚痴、不平不満が聞こえてきたら、「即、非難!」である。ウンウンとうなずくなどもってのほかである。
「では自分の口がそれを言い始めた時はどうすればいいのか?」
・・・、それはどこにも非難しようがないので、出てこないようにするか、その時はまったく思っていなくても明るく朗らかな言葉をどんどん口にして、言葉に心を磨いてもらいましょう。
権威のある先生がうどん粉を「これは身体に大変よく効く薬ですよ」と患者さんに言えば、約60%の人には効いてしまうことを「プラシーボ効果」という。
聞くところによると、新薬の効果はプラシーボ効果に5%を上乗せした65%に効けば認められるということになっているらしい。
人は少なくとも「なにげない気持ち」「思い込み」だけで60%の人がかなり瞬時に「良く」もなるし、「悪く」もなるということらしい。
無意識下の「潜在意識」が影響を受けるということなので、結構面倒な話のような気がする。
ひとつの対処法は、近くで悪口、陰口、愚痴、不平不満が聞こえてきたら、「即、非難!」である。ウンウンとうなずくなどもってのほかである。
「では自分の口がそれを言い始めた時はどうすればいいのか?」
・・・、それはどこにも非難しようがないので、出てこないようにするか、その時はまったく思っていなくても明るく朗らかな言葉をどんどん口にして、言葉に心を磨いてもらいましょう。
2008年9月7日日曜日
大敬先生の「般若心経」講義⑧「ひとつ命」にすべてはつながる

いよいよこれで最後となります。
観音様です。
般若心経の「無智亦無得、以無所得故(むちやくむとく いむしょとくこう)」の10文字のところを読むと観音様が現れて、「よし、よし」と笑みをうかべてうなずいてくださると空海さんはおっしゃっています。
自分の知恵がない「無智」、
自分の能力がない「無得」、
自分のものとすることはない「無所得」。
宇宙には大きな響きが広がっているそうです。
そして、その響きに同調するメロディーを描くと願いごとはすぐに叶います。
逆にこれに反する思いの目標はなかなか叶わないし、叶わない方がいいのです。
歴史上、名を残していますが、多くの人々の犠牲のもとで地位を築いた織田信長や豊臣秀吉の子孫は不幸でした。願いが叶ったからいいというわけではないのです。
観音様は、音、響きを感じています。
その人の持っている個性でその音、響きに同調できるようにすることが大切です。
自分の能力ではない
自分の力ではない
自分の所有ではない
そんな同調の方法なのだと思います。
僕は42歳から思いのままの人生を送らせていただいております。
近頃はそんな思いのままもなくなって、「思い及ばぬ人生」を感じられるようになってきた気がします。
宇宙全体の思いを感じます。
「思い及ばぬ人生」が観音様の生き方なのです。
今日、この場所にいらした方の中にはそんな世界を見通せる人が出てくるのかもしれません。僕は30世紀に向けて自分ができることをしていこうと思っています。
観音様は、手に蓮(はす)の花をもっています。なぜこの花をもっているのでしょうか。
蓮の花は別々に咲いているように見えますが、水の中の泥の下では根はつながっています。
命はひとつなのです。そのシンボルが蓮の花です。
宇宙の響きもこの蓮の花と同じく、ひとつにまとまろうとしています。
その流れに合わない願いは、叶いません。
「ひとつ命」というゴールにすべてがつながっているのです。
それがわかってくると、ふっと思うことが叶うようになってきます。
野ギツネになったお坊さんの昔話があります。お坊さんが五百回生まれ変わりをするのですが、因果によってずっとキツネになっています。
そのことに悩み、苦しみ、さまざまなことを心みますが人間ではなくいつもキツネとして生まれることになってしまいます。
そして、とうとう、ある時、「自分はキツネでいいや(キツネとして生きていこう)」と思った瞬間、キツネとして生きていくことが終わり、人間として生まれ変わることになるというお話です。
【呪の章】
「呪」は口+祝という文字からできています。
宇宙全体にはある響きが響いています。これに同調できるかが大切なのです。
では、この宇宙の響きとはどういう響きなのでしょうか。
それは、「祝福の響き」なんです。
般若心経の「大神呪(だいじんしゅ)」とは、大いなる祝福のことです。
「大明呪(だいみょうしゅ)」は、喜びと光明でいっぱいということです。
「無上呪(むじょうしゅ)」は、高く澄みきった祝福、
「無等等呪(むとうどうしゅ)」は、すべての人に平等に与えられ、包み込まれているということです。
同調すると自分がこの響きを響かせられるようになる。これが「無等等呪」なのです。
【真言の章】
般若心経の終章はこうです。
「羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提娑婆賀 般若心教」
(ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい ぼうじそわか はんにゃしんぎょう)
お釈迦様が悟られた時に叫ばれたのがこの言葉だったのです。
それぞれの意味は、
「羯諦(ぎゃてい)」は、着いた、
「波羅(はら)」は、目的地(ゴール)に、
「波羅僧(はらそう)」は、ゴールに皆一緒に着いた、
「菩提(ぼうじ)」は、ひとつ命の成就、
「娑婆賀(そわか)」は、めでたく、ありがたし、
です。
これらの言葉は、「完了形」として表されています。
お釈迦様は悟りによって、人類の最後を確認されました。
それが「ひとつ命」を悟ることが目標ということでした。
「ひとつ命」になった、皆が同じ悟りとなったという目標です。
【成果の章】
「思いを実現するというのも、欲なのではないのか」と聞かれることがあります。
悟りを教えないということで失望される方もいます。
確かに悟ろうとすることも欲です。
しかし、「ひとつ命」だけを目標にしていたら、人は伸びないのです。
すべてを欲として認めた上で、仕事、配偶者、人、物事との関わりを、一つひとつ自分なりにきとんとやっていくことが自分を伸びていくことになるのです。
欲を翼にして悟りをひらくということを、お釈迦様もおっしゃっています。
自分の目の前にこそ大切なことがあり、きちんと向き合っていく心に「ひとつ命」というゴールがあるのです。
人 人 人 人 人 人 人 人 人 人 人 人 人 人 人 人 人
これで立花大敬先生の「般若心経講座」はひとまず終了です。
このブログを読んでくださっている友人、知人の中には般若心経を読まれている人、書かれている人が数多くいらっしゃり、また僕が縁となり始められた方々もいらっしゃるので、大敬先生のこの貴重なお話は可能な限りありのままの形でお伝えするのが僕の役割だなと思い、メモ帳を横にしながら悪戦苦闘しつつご紹介してまいりました。
ただ、個人的に新しい仕事が入り、本格的に向き合うことになるなど、身辺が急に慌ただしくなったため(僕はこれも般若心経の、そして大敬先生の講演を聞けた御陰だと思っています)に、ずいぶん時間を要してしまいました。読んでくださっていた方、また、気をかけてくださっている方には心よりお詫び申し上げます。
また、この連載の途中には、驚き、喜ぶ、しかし、恐縮して冷や汗が背筋を流れるような出来事がありました。
福岡・北九州での大敬先生の「禅の会」に参加された方から、東京の講演の内容を書きつづったブログがあるとこの禅の会で知り、ブログを読ませてもらいましたという丁重なメールをいただいたのですが、その僕のブログの存在を教えてくださったのがなんと“大敬先生本人“だというのです。
僕はメールを読みながら初めて自分の身体が固まるという経験をしました。
とはいえど、講演の紹介を途中で止めるわけにもいかず、暑さとは別のひんやりした汗を流しながら、書きつづり、なんとか本日書き終えました。
連載の書き出しでもお断りしていますが、表記は一人称で記してありますが、それはなるべくありのままの形でお伝えしたいという思いからで、作業は聞き取ったメモを文章にまとめていく作業ですので誤字、脱字や先生の主旨をきちんとくみ取れていない表現などがきっとあると思います。
この点、ご了承、ご容赦ください。また、お気づきの点がありましたら、ご面倒でもぜひお教えください。
私は、大敬先生とのご縁によって学んだこの「ひとつ命」の教えを大切にして目の前のことに真心をもって喜びの気持ちを持って臨み、前に進んでまいりたいと思います。
読んでくださっている皆様におかれましてもこの心による想いの実現法で幸せをつかんで喜びと光の存在になり、周りの人たちにその喜びと光を分け与えてあげてほしいと願っています。これからもどうぞよろしくお願い致します。
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