2008年1月22日火曜日

お願い事をするなら「ご先祖様」と「お地蔵様」

 年明けに「神社でお願い事をしてはいけない」と書いたが、お願い事をそれこそ思う存分して構わないのが「ご先祖様」である。
 だから願い事があったら、お墓参りにいけばいい。
 そして、自分の思いの丈を素直にうち明ければ、必ず、まさに“親身”になって聞いてくれる。
 子供には厳しく接してきたのに、孫ができるとベタベタに甘くなるという話をよく聞くが、ご先祖様は子孫がそれこそ「食べちゃいたいぐらいカワイくて仕方がない」らしい。
 だからかもしれないが、子孫の思い、願いを先祖はまっすぐに受け止めてくれて、身近な人や出会った人の口やテレビやラジオ、雑誌などのさまざまな身近なものを借りてアドバイスしてくれるし、実現できるよう懸命に後押ししてくれる。
 ほんとにありがたいことである。

 墓を参ると、神社を詣でた時とはまた違う清々(すがすが)しさを味わうことができる。
 でも、僕は実家の墓を参るにも、遠く離れた故郷にあるため思うようにいくことができないでいる。
 「墓参りにいきたいなー」と無性に思うことがあるが、母が入ってからなおさらそう思うことが増えた。

 先日、墓のことで「あ、そうだった。しまったー」と思うことがあった。
 知人と話していて「あなたはもちろん知ってることだけど、墓にすぐに来れないのに『また、来るね』と言うのは厳禁なんだよ、と親戚の子に教えてあげたんですよ」と言われた。
 「時間」というのは人間が自分らに都合がいいものとして作ってあるだけで、神界には時間軸というものは存在しない。「現在」も「過去」も「未来」もひとつのところに収まっているからだ。
 すべてが“今”なのである。
 「神様からまもなく大地震が起こるという神託があった」という霊能者の預言があるが、この“まもなく”の定義はこちらの人間の世界では今年か来年あたりになるのかもしれない。
 しかし、神界で「まもなく」というのは、今年かもしれないし、来年かもしれなし、1秒後かもしれないし、100年後かもしれない、1000年後かもしれないということになる。
 だから、預言は絶対に”時間通り”当たらないのである(厳密には“いつかは必ず起こる”のだが、当たらないようにみえる)。

 昨年9月に母親の7回忌で帰省した時、毎日のように墓に行った。滅多に会えないので、頻繁に足を運んだ。
 出発の朝は早い便での上京だったのでまだ日が昇る前に車で寄ってもらったが、この時、手を合わせて「また来るね」と言ったような気がする・・・、いや、確実に言った。
 そのことを思いだし、「あ、そうだった。しまったー」と思ったのである。
 こちらと時間の観念が異なるので、「また、来るね」と言うと、“すぐに、明日にでも来てくれる”と思われてしまうのである。
 まあ、事情はわかってはくれてるとは思うけど、余計な言霊(言葉)は発しないにこしたことはない。
 生きてる時もいつも待たせてばかりだったのに、あの世に行ってなお、これである。僕の親不孝グセはなかなか卒業できないようである。


 もうひとりのお願い事をしてよい相手は「お地蔵様」だ。
 かつてお地蔵さん(ここからは愛称の「お地蔵さん」と呼びます)はこの世(人間界)にいらっしゃって多くの徳を積まれ、神界に導かれて神の位になることが決まった。

 しかし、お地蔵さんは、
 「私が行くと、人々の願い事を聞いて、神に届ける者が誰もいなくなってしまいます」
 とおっしゃって神界に行くのを断り、この世に残った。

 人々の願い事を聞き、神に運び届ける生き方を選んだお地蔵さんは、気の遠くなるような神界までの道のりを歩いてゆかれるそうだ。
 それが険しい旅である証(あかし)に、たいていのお地蔵さんは”杖(つえ)”をついている。


 最後に、お地蔵さんにお願い事をする際にひとつ大事なことがある。
 人もそうだが出会ったら、まず相手を呼びかけるのが礼儀だ。でも、「お地蔵さん、お地蔵さん」と呼んでもお地蔵さんは自分が呼ばれているのかすぐにはわからない。
 
 お地蔵さんに願い事をする時は、まず、

 「おんかかかび さんまえいそわか」という真言で呼びかけるのだ。通常3回唱える。

 するとお地蔵様は「はい、お呼びですか。どうなさったんですか。なにかお願い事でもあるんですか」って感じで振り向いてくれる。

 「おんかかび さんまえいそわか」とは
 「たぐいまれな尊いお地蔵さま」という意味であり、昔から先人はお地蔵さまを呼ぶ時にはこの真言を唱えてきた。

 以前に、トイレの神様である「うすしま明王様」の話とその真言「おんくろだろう うんじゃくそわか」、そして帯状疱疹(やけどにも効くらしい)を治す真言などについても紹介したが、
 昔の人は「神さまによって、それぞれの真言があり、お願いごとをする際には、この真言をまずは 唱えることが大切なんだよ」とお年寄りから教えられてきたのだが、僕らの親の世代あたりで潰え、今ではそんな風習などまったくといっていいほど残っていない。

 残念なことだが、そういう出会いと気づきがあった人が、これからは自分で学び、伝えるべき時に伝えていくしかないと僕は思っている。

 「必要なことは願い事はすべて叶う」という原則はあるけど、どうしてもこれは、というお願い事がある時は、「ご先祖様」と「お地蔵様」に明るい顔で会いに行ってください。

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