2008年1月30日水曜日

節分と「陋巷に在り」と「カラマーゾフの兄弟」。そして恵方巻

 まもなく節分。
 日本では古くから立春が新年の始まりと考えられており、季節の変わり目には邪気(鬼)が生じると言い伝えられてきた。
 節分の日の夕暮れ時に邪気は人の世界に姿を現して徘徊し、人の元に音もなくやってくるといわれる。
 窓や扉の隙間から、家族の出入りに乗じて家の中に忍び込み、家族が寝入るのをうっすらと笑みを浮かべながら息を潜めて待ちうけている邪気が部屋の片隅にいると考えるとなんとも薄気味悪い。
 そんな邪気を追い払うために、昔から、柊(ひいらぎ)の枝に鰯(いわし)の頭を刺したものを戸口に立てておいたり、豆をまいたりしてきた。

 話は少しそれるが、孔子の時代を舞台にした酒見賢一の小説「陋巷(ろうこう)に在り」では、この邪気の存在が非常にうまく描かれている。
 孔子が最も愛した弟子である「顔回」を主人公にすえて、竈(かまど)の神様などさまざまな神様や邪気のような魑魅魍魎(ちみもうりょう)たちがそれまでは人の目にも見えていたのに、だんだんと見えなくなり始めた時代が舞台という設定もおもしろい。
 孔子は、こうした存在が、人の目に見えなってくるからこそ、「礼」という仕組みをつくった。
 この「礼」を人々が学び、習得すると呪術を使わなくても、魔に引き入れられることなく健康に幸せに暮らせるようになるとして、政治に参画してまで「礼」の普及拡大に人生を捧げていく。

 竈の神様を大切にしない家には病人が必ずいる話や邪気に次第に取り込まれていく過程などについてもかなりリアルに描かれていて勉強になった。
 それになんとっても貧民窟に父親と暮らしているにもかかわらず、素直で晴れやかな心を持つ主人公の「顔回」がとっても魅力的だ。
 20歳前後に「カラマーゾフの兄弟」を読んで、三男・アリョーシャの澄み渡ったようなやさしさと温かさにあふれた心根にふれ、「なんて自分は汚れちまったんだ」と涙したことがあったが、この「顔回」にも同様の清々(すがすが)しさと、時折なんともいえない切なさを感じる。

 この作品ではそこまでは描かれていないが、実在の「顔回」は若くして孔子よりも早く世を去ってしまう。僕はそれを知って友人を失ってしまったような哀しみに見舞われた。2500年以上前の紀元前のことなんだけど、最近のことのように。
 そう思わせる男が「顔回」であり、孔子が数多くの優秀な弟子たちの中でも最もかわいがり、頼りにした理由もそこにあるのだろう。

 昨年は、この「陋巷の在り」との出会いによって、改めて「論語」を読み返してみた。学生時代、センセイがこういう紹介をしてくれたらもっと早く「論語」が好きになっていただろうなと思うけど、この時期に出会うことが「必然」なのだから仕方ない。
 最後に、この「陋巷に在り」は文庫本も出ていてお薦めしたいが、ただ全13巻とやや長い。その辺はご検討を・・・。

 節分の行事として豆まき以上に近年は「恵方巻」と呼ばれる太巻きをまるかじりする関西の節分の風習が全国的に広がっている。
 これも商売繁盛、無病息災、祈願をかなえるための厄落としの意味があり、歳徳神のいる方向である「恵方」を向いて目を閉じて願い事を思いながら丸かじりするのが習わしだ。
 丸かじりして食べ終えるまで誰とも話をしてはいけないという決まりごとがあることも、なんだか微笑ましい。
 ちなみに今年の恵方は「南南東」である。
 この「恵方巻」の文化は戦後にはすっかり廃れていたが、オイルショック後に大阪の海苔業界が海苔の需要拡大のために行ったイベントがきっかけとなって復活し、新商品を探るコンビニエンス・ストアの思惑とも一致して関西だけではなく全国に広がったそうだ。

 2月3日の夜は、豆まきや恵方巻きを孔子が人々の安寧への思いを込めた「礼」のひとつであると考えて実行し、夕暮れ時からあちこちをうろうろしている今では目に見えなくなった邪気たちをしっかりと追い払うことにしよう。

0 件のコメント: