2008年9月13日土曜日

「幸せのソフト」インプット記念日

 毎朝続けている日課がいくつかある。

 朝日を拝む「日拝」や守護霊へのあいさつ、般若心経を唱えることなどと共に日課としているのが、

 中川昌蔵さんが提唱されている

 「幸福になるためのソフト」の暗唱である。


 今日一日、親切にしようと想う。

 今日一日、明るく朗らかにしようと想う。

 今日一日、謙虚にしようと想う。

 今日一日、素直になろうと想う。

 今日一日、感謝をしようと想う。


 人によっては「こんな当たり前のことを毎朝、暗唱してるの?」と言われるかもしれないが、僕なりにいろんなことを学んできた中で、この5箇条のシンプルな言葉を我が身に刷り込ませることは、これから生きていく上でとても大切なことであるとの直感があったので即、半紙に筆で書き記し、トイレの中の目に付くところに貼り付けた。

 さらに魅了されたのが、その方法論で、以前にもご紹介したが、中川さんが、「この『幸せのソフト』は実行してはダメ、意識して実行すると失敗する」とおっしゃっている点である。

 その理由を中川さんは、「なぜかというと、コンピューターというハードにはソフトが不可欠なように、人間は肉体というハードがあり、そのハードにもソフトが不可欠なのです。親切というソフトが必要なのですが、ソフトをつくる前に人に親切にしたら失敗してしまうのです」
 「現代人の右脳はよく働かなくなっているが、それは物質世界の中で育ち、小学校から大学まで理論や数学や権利意識ばかり教育して左脳人間を作り上げた結果である」
 「だから右脳にソフトをインプットすることが必要になってきたのである」

 と自著「不運より脱する運命の法則」の中で説明している。

 頭で考えてから行動が起こるのではなく、心が対象をとらえた瞬間に身体が自然に動くようになってはじめてこの「幸せのソフト」のインプットが完了したことになるのだ、と僕なりに解釈させてもらった。


 いつかはそんな日がくればいいなと楽しみにしながら日課としてきたわけだが、
 先週、「あれ、これは『幸せのソフト』がインプットされたのかも!?」と思う体験をした。

 どういうことをしたのかについて細かに書くのは気恥ずかしいので止すが、電車の中で、そしてその電車を降りて公共施設の建物の前で、困っている人がいるのに立ち会い手助けすることができたのだ。

 その時、いずれも頭の中で「どうしようかな」「こうしてあげると助けられるかな」と考え、「そうしてあげよう」と決めて身体が動いたわけではなく、
 困った人を見た瞬間、身体が動いていて、手助けを終えたあとで、「あれっ、身体が勝手に動いた~」と自分に驚いてしまうという体験であった。

 こんな体験は初めてのことであり、しかも1時間ほどの間に2度も続いたので、
 「もしかしたら幸せのソフトがインプットされたのかな?今日は記念日かもしれない」とひとり喜んだという次第である。

 まあ、本当にインプットを終えたとしても「心の鏡」が曇っているような時には起動しないだろうから、これからも良き心がけが必要であろう。

 もちろん「幸せのソフト」を暗唱する日課も続けていくつもりである。
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2008年9月12日金曜日

何気ない思い込みで60%の人が良くもなるし悪くもなく「プラシーボ効果」

 「プラシーボ効果」というものがある。

 権威のある先生がうどん粉を「これは身体に大変よく効く薬ですよ」と患者さんに言えば、約60%の人には効いてしまうことを「プラシーボ効果」という。

 聞くところによると、新薬の効果はプラシーボ効果に5%を上乗せした65%に効けば認められるということになっているらしい。

 人は少なくとも「なにげない気持ち」「思い込み」だけで60%の人がかなり瞬時に「良く」もなるし、「悪く」もなるということらしい。

 無意識下の「潜在意識」が影響を受けるということなので、結構面倒な話のような気がする。

 ひとつの対処法は、近くで悪口、陰口、愚痴、不平不満が聞こえてきたら、「即、非難!」である。ウンウンとうなずくなどもってのほかである。

 
 「では自分の口がそれを言い始めた時はどうすればいいのか?」

 ・・・、それはどこにも非難しようがないので、出てこないようにするか、その時はまったく思っていなくても明るく朗らかな言葉をどんどん口にして、言葉に心を磨いてもらいましょう。

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2008年9月7日日曜日

大敬先生の「般若心経」講義⑧「ひとつ命」にすべてはつながる


 いよいよこれで最後となります。
 観音様です。
 般若心経の「無智亦無得、以無所得故(むちやくむとく いむしょとくこう)」の10文字のところを読むと観音様が現れて、「よし、よし」と笑みをうかべてうなずいてくださると空海さんはおっしゃっています。

 自分の知恵がない「無智」、
 自分の能力がない「無得」、
 自分のものとすることはない「無所得」。

 宇宙には大きな響きが広がっているそうです。
 そして、その響きに同調するメロディーを描くと願いごとはすぐに叶います。
 逆にこれに反する思いの目標はなかなか叶わないし、叶わない方がいいのです。
 歴史上、名を残していますが、多くの人々の犠牲のもとで地位を築いた織田信長や豊臣秀吉の子孫は不幸でした。願いが叶ったからいいというわけではないのです。

 観音様は、音、響きを感じています。
 その人の持っている個性でその音、響きに同調できるようにすることが大切です。
 自分の能力ではない
 自分の力ではない
 自分の所有ではない
 そんな同調の方法なのだと思います。

 僕は42歳から思いのままの人生を送らせていただいております。
 近頃はそんな思いのままもなくなって、「思い及ばぬ人生」を感じられるようになってきた気がします。
 宇宙全体の思いを感じます。

 「思い及ばぬ人生」が観音様の生き方なのです。
 今日、この場所にいらした方の中にはそんな世界を見通せる人が出てくるのかもしれません。僕は30世紀に向けて自分ができることをしていこうと思っています。

 観音様は、手に蓮(はす)の花をもっています。なぜこの花をもっているのでしょうか。
 蓮の花は別々に咲いているように見えますが、水の中の泥の下では根はつながっています。
 命はひとつなのです。そのシンボルが蓮の花です。

 宇宙の響きもこの蓮の花と同じく、ひとつにまとまろうとしています。
 その流れに合わない願いは、叶いません。
 「ひとつ命」というゴールにすべてがつながっているのです。
 それがわかってくると、ふっと思うことが叶うようになってきます。

 野ギツネになったお坊さんの昔話があります。お坊さんが五百回生まれ変わりをするのですが、因果によってずっとキツネになっています。
 そのことに悩み、苦しみ、さまざまなことを心みますが人間ではなくいつもキツネとして生まれることになってしまいます。
 そして、とうとう、ある時、「自分はキツネでいいや(キツネとして生きていこう)」と思った瞬間、キツネとして生きていくことが終わり、人間として生まれ変わることになるというお話です。

 【呪の章】
 「呪」は口+祝という文字からできています。
 宇宙全体にはある響きが響いています。これに同調できるかが大切なのです。
 では、この宇宙の響きとはどういう響きなのでしょうか。
 それは、「祝福の響き」なんです。

 般若心経の「大神呪(だいじんしゅ)」とは、大いなる祝福のことです。
 「大明呪(だいみょうしゅ)」は、喜びと光明でいっぱいということです。
 「無上呪(むじょうしゅ)」は、高く澄みきった祝福、
 「無等等呪(むとうどうしゅ)」は、すべての人に平等に与えられ、包み込まれているということです。

 同調すると自分がこの響きを響かせられるようになる。これが「無等等呪」なのです。


 【真言の章】
 般若心経の終章はこうです。

 「羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提娑婆賀 般若心教」
 (ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい ぼうじそわか はんにゃしんぎょう)

 お釈迦様が悟られた時に叫ばれたのがこの言葉だったのです。

 それぞれの意味は、
 「羯諦(ぎゃてい)」は、着いた、
 「波羅(はら)」は、目的地(ゴール)に、
 「波羅僧(はらそう)」は、ゴールに皆一緒に着いた、
 「菩提(ぼうじ)」は、ひとつ命の成就、
 「娑婆賀(そわか)」は、めでたく、ありがたし、
 です。

 これらの言葉は、「完了形」として表されています。

 お釈迦様は悟りによって、人類の最後を確認されました。
 それが「ひとつ命」を悟ることが目標ということでした。
 「ひとつ命」になった、皆が同じ悟りとなったという目標です。

 【成果の章】
 「思いを実現するというのも、欲なのではないのか」と聞かれることがあります。
 悟りを教えないということで失望される方もいます。
 確かに悟ろうとすることも欲です。
 しかし、「ひとつ命」だけを目標にしていたら、人は伸びないのです。
 すべてを欲として認めた上で、仕事、配偶者、人、物事との関わりを、一つひとつ自分なりにきとんとやっていくことが自分を伸びていくことになるのです。
 欲を翼にして悟りをひらくということを、お釈迦様もおっしゃっています。
 自分の目の前にこそ大切なことがあり、きちんと向き合っていく心に「ひとつ命」というゴールがあるのです。

人  人  人  人  人  人  人  人  人  人  人  人  人  人  人  人  人  

 これで立花大敬先生の「般若心経講座」はひとまず終了です。
 このブログを読んでくださっている友人、知人の中には般若心経を読まれている人、書かれている人が数多くいらっしゃり、また僕が縁となり始められた方々もいらっしゃるので、大敬先生のこの貴重なお話は可能な限りありのままの形でお伝えするのが僕の役割だなと思い、メモ帳を横にしながら悪戦苦闘しつつご紹介してまいりました。
 ただ、個人的に新しい仕事が入り、本格的に向き合うことになるなど、身辺が急に慌ただしくなったため(僕はこれも般若心経の、そして大敬先生の講演を聞けた御陰だと思っています)に、ずいぶん時間を要してしまいました。読んでくださっていた方、また、気をかけてくださっている方には心よりお詫び申し上げます。

 また、この連載の途中には、驚き、喜ぶ、しかし、恐縮して冷や汗が背筋を流れるような出来事がありました。
 福岡・北九州での大敬先生の「禅の会」に参加された方から、東京の講演の内容を書きつづったブログがあるとこの禅の会で知り、ブログを読ませてもらいましたという丁重なメールをいただいたのですが、その僕のブログの存在を教えてくださったのがなんと“大敬先生本人“だというのです。
 僕はメールを読みながら初めて自分の身体が固まるという経験をしました。
 とはいえど、講演の紹介を途中で止めるわけにもいかず、暑さとは別のひんやりした汗を流しながら、書きつづり、なんとか本日書き終えました。

 連載の書き出しでもお断りしていますが、表記は一人称で記してありますが、それはなるべくありのままの形でお伝えしたいという思いからで、作業は聞き取ったメモを文章にまとめていく作業ですので誤字、脱字や先生の主旨をきちんとくみ取れていない表現などがきっとあると思います。
 この点、ご了承、ご容赦ください。また、お気づきの点がありましたら、ご面倒でもぜひお教えください。

 私は、大敬先生とのご縁によって学んだこの「ひとつ命」の教えを大切にして目の前のことに真心をもって喜びの気持ちを持って臨み、前に進んでまいりたいと思います。
 読んでくださっている皆様におかれましてもこの心による想いの実現法で幸せをつかんで喜びと光の存在になり、周りの人たちにその喜びと光を分け与えてあげてほしいと願っています。これからもどうぞよろしくお願い致します。

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