2008年9月13日土曜日

「幸せのソフト」インプット記念日

 毎朝続けている日課がいくつかある。

 朝日を拝む「日拝」や守護霊へのあいさつ、般若心経を唱えることなどと共に日課としているのが、

 中川昌蔵さんが提唱されている

 「幸福になるためのソフト」の暗唱である。


 今日一日、親切にしようと想う。

 今日一日、明るく朗らかにしようと想う。

 今日一日、謙虚にしようと想う。

 今日一日、素直になろうと想う。

 今日一日、感謝をしようと想う。


 人によっては「こんな当たり前のことを毎朝、暗唱してるの?」と言われるかもしれないが、僕なりにいろんなことを学んできた中で、この5箇条のシンプルな言葉を我が身に刷り込ませることは、これから生きていく上でとても大切なことであるとの直感があったので即、半紙に筆で書き記し、トイレの中の目に付くところに貼り付けた。

 さらに魅了されたのが、その方法論で、以前にもご紹介したが、中川さんが、「この『幸せのソフト』は実行してはダメ、意識して実行すると失敗する」とおっしゃっている点である。

 その理由を中川さんは、「なぜかというと、コンピューターというハードにはソフトが不可欠なように、人間は肉体というハードがあり、そのハードにもソフトが不可欠なのです。親切というソフトが必要なのですが、ソフトをつくる前に人に親切にしたら失敗してしまうのです」
 「現代人の右脳はよく働かなくなっているが、それは物質世界の中で育ち、小学校から大学まで理論や数学や権利意識ばかり教育して左脳人間を作り上げた結果である」
 「だから右脳にソフトをインプットすることが必要になってきたのである」

 と自著「不運より脱する運命の法則」の中で説明している。

 頭で考えてから行動が起こるのではなく、心が対象をとらえた瞬間に身体が自然に動くようになってはじめてこの「幸せのソフト」のインプットが完了したことになるのだ、と僕なりに解釈させてもらった。


 いつかはそんな日がくればいいなと楽しみにしながら日課としてきたわけだが、
 先週、「あれ、これは『幸せのソフト』がインプットされたのかも!?」と思う体験をした。

 どういうことをしたのかについて細かに書くのは気恥ずかしいので止すが、電車の中で、そしてその電車を降りて公共施設の建物の前で、困っている人がいるのに立ち会い手助けすることができたのだ。

 その時、いずれも頭の中で「どうしようかな」「こうしてあげると助けられるかな」と考え、「そうしてあげよう」と決めて身体が動いたわけではなく、
 困った人を見た瞬間、身体が動いていて、手助けを終えたあとで、「あれっ、身体が勝手に動いた~」と自分に驚いてしまうという体験であった。

 こんな体験は初めてのことであり、しかも1時間ほどの間に2度も続いたので、
 「もしかしたら幸せのソフトがインプットされたのかな?今日は記念日かもしれない」とひとり喜んだという次第である。

 まあ、本当にインプットを終えたとしても「心の鏡」が曇っているような時には起動しないだろうから、これからも良き心がけが必要であろう。

 もちろん「幸せのソフト」を暗唱する日課も続けていくつもりである。
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2008年9月12日金曜日

何気ない思い込みで60%の人が良くもなるし悪くもなく「プラシーボ効果」

 「プラシーボ効果」というものがある。

 権威のある先生がうどん粉を「これは身体に大変よく効く薬ですよ」と患者さんに言えば、約60%の人には効いてしまうことを「プラシーボ効果」という。

 聞くところによると、新薬の効果はプラシーボ効果に5%を上乗せした65%に効けば認められるということになっているらしい。

 人は少なくとも「なにげない気持ち」「思い込み」だけで60%の人がかなり瞬時に「良く」もなるし、「悪く」もなるということらしい。

 無意識下の「潜在意識」が影響を受けるということなので、結構面倒な話のような気がする。

 ひとつの対処法は、近くで悪口、陰口、愚痴、不平不満が聞こえてきたら、「即、非難!」である。ウンウンとうなずくなどもってのほかである。

 
 「では自分の口がそれを言い始めた時はどうすればいいのか?」

 ・・・、それはどこにも非難しようがないので、出てこないようにするか、その時はまったく思っていなくても明るく朗らかな言葉をどんどん口にして、言葉に心を磨いてもらいましょう。

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2008年9月7日日曜日

大敬先生の「般若心経」講義⑧「ひとつ命」にすべてはつながる


 いよいよこれで最後となります。
 観音様です。
 般若心経の「無智亦無得、以無所得故(むちやくむとく いむしょとくこう)」の10文字のところを読むと観音様が現れて、「よし、よし」と笑みをうかべてうなずいてくださると空海さんはおっしゃっています。

 自分の知恵がない「無智」、
 自分の能力がない「無得」、
 自分のものとすることはない「無所得」。

 宇宙には大きな響きが広がっているそうです。
 そして、その響きに同調するメロディーを描くと願いごとはすぐに叶います。
 逆にこれに反する思いの目標はなかなか叶わないし、叶わない方がいいのです。
 歴史上、名を残していますが、多くの人々の犠牲のもとで地位を築いた織田信長や豊臣秀吉の子孫は不幸でした。願いが叶ったからいいというわけではないのです。

 観音様は、音、響きを感じています。
 その人の持っている個性でその音、響きに同調できるようにすることが大切です。
 自分の能力ではない
 自分の力ではない
 自分の所有ではない
 そんな同調の方法なのだと思います。

 僕は42歳から思いのままの人生を送らせていただいております。
 近頃はそんな思いのままもなくなって、「思い及ばぬ人生」を感じられるようになってきた気がします。
 宇宙全体の思いを感じます。

 「思い及ばぬ人生」が観音様の生き方なのです。
 今日、この場所にいらした方の中にはそんな世界を見通せる人が出てくるのかもしれません。僕は30世紀に向けて自分ができることをしていこうと思っています。

 観音様は、手に蓮(はす)の花をもっています。なぜこの花をもっているのでしょうか。
 蓮の花は別々に咲いているように見えますが、水の中の泥の下では根はつながっています。
 命はひとつなのです。そのシンボルが蓮の花です。

 宇宙の響きもこの蓮の花と同じく、ひとつにまとまろうとしています。
 その流れに合わない願いは、叶いません。
 「ひとつ命」というゴールにすべてがつながっているのです。
 それがわかってくると、ふっと思うことが叶うようになってきます。

 野ギツネになったお坊さんの昔話があります。お坊さんが五百回生まれ変わりをするのですが、因果によってずっとキツネになっています。
 そのことに悩み、苦しみ、さまざまなことを心みますが人間ではなくいつもキツネとして生まれることになってしまいます。
 そして、とうとう、ある時、「自分はキツネでいいや(キツネとして生きていこう)」と思った瞬間、キツネとして生きていくことが終わり、人間として生まれ変わることになるというお話です。

 【呪の章】
 「呪」は口+祝という文字からできています。
 宇宙全体にはある響きが響いています。これに同調できるかが大切なのです。
 では、この宇宙の響きとはどういう響きなのでしょうか。
 それは、「祝福の響き」なんです。

 般若心経の「大神呪(だいじんしゅ)」とは、大いなる祝福のことです。
 「大明呪(だいみょうしゅ)」は、喜びと光明でいっぱいということです。
 「無上呪(むじょうしゅ)」は、高く澄みきった祝福、
 「無等等呪(むとうどうしゅ)」は、すべての人に平等に与えられ、包み込まれているということです。

 同調すると自分がこの響きを響かせられるようになる。これが「無等等呪」なのです。


 【真言の章】
 般若心経の終章はこうです。

 「羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提娑婆賀 般若心教」
 (ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい ぼうじそわか はんにゃしんぎょう)

 お釈迦様が悟られた時に叫ばれたのがこの言葉だったのです。

 それぞれの意味は、
 「羯諦(ぎゃてい)」は、着いた、
 「波羅(はら)」は、目的地(ゴール)に、
 「波羅僧(はらそう)」は、ゴールに皆一緒に着いた、
 「菩提(ぼうじ)」は、ひとつ命の成就、
 「娑婆賀(そわか)」は、めでたく、ありがたし、
 です。

 これらの言葉は、「完了形」として表されています。

 お釈迦様は悟りによって、人類の最後を確認されました。
 それが「ひとつ命」を悟ることが目標ということでした。
 「ひとつ命」になった、皆が同じ悟りとなったという目標です。

 【成果の章】
 「思いを実現するというのも、欲なのではないのか」と聞かれることがあります。
 悟りを教えないということで失望される方もいます。
 確かに悟ろうとすることも欲です。
 しかし、「ひとつ命」だけを目標にしていたら、人は伸びないのです。
 すべてを欲として認めた上で、仕事、配偶者、人、物事との関わりを、一つひとつ自分なりにきとんとやっていくことが自分を伸びていくことになるのです。
 欲を翼にして悟りをひらくということを、お釈迦様もおっしゃっています。
 自分の目の前にこそ大切なことがあり、きちんと向き合っていく心に「ひとつ命」というゴールがあるのです。

人  人  人  人  人  人  人  人  人  人  人  人  人  人  人  人  人  

 これで立花大敬先生の「般若心経講座」はひとまず終了です。
 このブログを読んでくださっている友人、知人の中には般若心経を読まれている人、書かれている人が数多くいらっしゃり、また僕が縁となり始められた方々もいらっしゃるので、大敬先生のこの貴重なお話は可能な限りありのままの形でお伝えするのが僕の役割だなと思い、メモ帳を横にしながら悪戦苦闘しつつご紹介してまいりました。
 ただ、個人的に新しい仕事が入り、本格的に向き合うことになるなど、身辺が急に慌ただしくなったため(僕はこれも般若心経の、そして大敬先生の講演を聞けた御陰だと思っています)に、ずいぶん時間を要してしまいました。読んでくださっていた方、また、気をかけてくださっている方には心よりお詫び申し上げます。

 また、この連載の途中には、驚き、喜ぶ、しかし、恐縮して冷や汗が背筋を流れるような出来事がありました。
 福岡・北九州での大敬先生の「禅の会」に参加された方から、東京の講演の内容を書きつづったブログがあるとこの禅の会で知り、ブログを読ませてもらいましたという丁重なメールをいただいたのですが、その僕のブログの存在を教えてくださったのがなんと“大敬先生本人“だというのです。
 僕はメールを読みながら初めて自分の身体が固まるという経験をしました。
 とはいえど、講演の紹介を途中で止めるわけにもいかず、暑さとは別のひんやりした汗を流しながら、書きつづり、なんとか本日書き終えました。

 連載の書き出しでもお断りしていますが、表記は一人称で記してありますが、それはなるべくありのままの形でお伝えしたいという思いからで、作業は聞き取ったメモを文章にまとめていく作業ですので誤字、脱字や先生の主旨をきちんとくみ取れていない表現などがきっとあると思います。
 この点、ご了承、ご容赦ください。また、お気づきの点がありましたら、ご面倒でもぜひお教えください。

 私は、大敬先生とのご縁によって学んだこの「ひとつ命」の教えを大切にして目の前のことに真心をもって喜びの気持ちを持って臨み、前に進んでまいりたいと思います。
 読んでくださっている皆様におかれましてもこの心による想いの実現法で幸せをつかんで喜びと光の存在になり、周りの人たちにその喜びと光を分け与えてあげてほしいと願っています。これからもどうぞよろしくお願い致します。

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2008年8月31日日曜日

大敬先生の「般若心経」講義⑦弥勒の教え


 次に、弥勒(みろく)菩薩です。
 
 般若心経の「是故空中、無色無受・・・、無眼界乃至無意識界」の部分がそれで、ここを読むと弥勒様が現れて、「そうだ、その通りだよ」と拍手して励ましてくださると、空海さんは説いています。

 弥勒さんは心と世界の関わりの様相を詳しく分析研究した「唯識学」をつくった方です。
 本当にあるのは「思いの響き」だけということをおっしゃいました。ですから、音に耳をすませています。

 「種子(しゅうじ)」
 「薫習(くんじゅう)」
 という言葉があります。

 「種子」はいつも震えています。
 プラニド形といって振動で変化する紋様があります。
 江本勝さんの言葉によって変化する水の結晶もこのためです。
 種子の響きが姿を変えていきます。
 人には「本音」というものがあります。
 「私は幸せ、私は幸せ」と念じている人がなぜ不幸になるのか?
 これは、そう言うたびに私は不幸、私は不幸と思っているからです。
 今の不幸を意識しているから不幸になります。
 そうした意味で「本音」に気をつけましょう。

 「薫習」は、横にいるだけで自分にも薫りが移るということ。
 共鳴現象もそうですが、これを使うと効果を見込めます。
 たとえば、成功者の本を読んだり、講演を聞いたりすることもそうです。
 「薫習の法」ともいいます。

 私は東京好きです。東京には繁栄の気があります。
 繁栄の気にふれるために訪れたりしています。

 「随喜法」も良いですね。
 成功した人がいたら「ふん、何さ」と言うと成功を否定したことになるので、その人は成功しません。
 人の成功を喜んであげることが、その波動を受け、自分の成功になるのです。

 金光教の教祖さんは、「悪口を言う人がいたら、逃げろ」と言っていたそうです。
 悪口の波動は強烈なのですね。

 普賢さんは白像に乗り、文殊さんはライオンという乗物に乗っていましたが、弥勒さんは乗物に乗っておられません。これは、弥勒さんにはもう乗物は必要ない。ただ、天命とひとつになっていれば、おのずと想い通りになってゆくのだからと知る段階に達しておられるからです。

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2008年8月26日火曜日

大敬先生の「般若心経」講義⑥文殊菩薩の心の法



 次は「文殊(もんじゅ)菩薩」です。

 般若心経の本文では「是諸法空相(ぜしょほうくうそう)~不増不滅」までが文殊さんの出番です。

 文殊菩薩は、ライオンに乗っています。姿は子供で、身体は黒く、手には剣(つるぎ)をもっています。

 「不生不滅 不垢不浄 不増不滅」
 スクリーンの上で生き、そして滅びる。
 人は無意識に自分自身を制限しています。
 人は時間の中で物事をとらえます。そこには経歴のブロックがあったりします。

 禅の神様である仰山(きょうざん)禅師は、ある日、夢を見たとおっしゃいました。
 その夢には、お釈迦様と文殊菩薩が会合しており、その隣の3番目の席が空いていました。
 禅師は、その席にすっと座ったところ、「今日は3番目に座った人が説法をする日です」と言われました。
 仰山さんは「差別を絶しています」と言って説法を締めくくります。

 この夢物語で仰山さんは私たちに何を伝えようとしているのでしょうか。
 お釈迦様と文殊菩薩の隣の席ですから、普通なら気後れして逃げ出してします。
 自分にはふさわしくないと自ら決めてしまい、自らを制限し、限定してしまいます。

 でも、人生では、今のあなたにふさわしい「空席」は決してこないし、今のあなたにふさわしい「仕事」も絶対やってきません。

 仰山さんは答えは「席があったら坐りなさい」、「仕事がきたらやりなさい」ということです。
 グズグズ文句なしに、思い切って、サッと席に着き、サッと働き出せば、必要な能力も、必要な智慧も、次々限りなくわきあがってくるものだと言っているのです。

 金光教の教祖の湯川さんのお話で、10年間病気だった人をお祈りして治してあげようとすると、どれぐらいで治るのかと訊ねられた。
 「1日で治します」と言うと、
 「10年も病気だったのに1日で治るわけない」と言う。
 「じゃあ、1週間で治しましょう」と言うと、
 「10年、病気だったのに1週間ですか?」と今度は訊かれたという話があります。

 世界は1刹那(せつな)で切れているのです。
 「不垢不浄」は、けがれていない、きれいでないということです。
 罪の意識で病気になり苦しむ人がいます。
 「私はダメな人間だ」「私は汚(けが)れてしまった」「過去にこんな罪を犯しているから取り返しがつかない」・・・
 他人の評価に自分をゆだねているんです。

 人は“光”そのものです。“光”は汚れることができないし、傷つくこともできません。そして、“光”は歩みを止めることもできません。

 「不増不滅」は、増えたり減ったりしない、この世はスクリーンに映ったドラマなのですよ、とうことです。
 10円は描きやすいのに、100万円は描きづらいと自分が思っているだけなのです。
 描く手間は一緒です。

 自らが描き出した映像の世界に、のめりこみ、巻き込まれることによって、人は思い通りの人生を送れなくなるのです。

 スクリーン上で展開されている“増減ゲーム”からひとまず眼を放し、心の豊かさを持ちましょう。
 
 心さえ、たっぷりうるおって、あったかくて、光いっぱいの明るさをたもっていれば、豊かさのシンボルである“お金”ぐらい、いくらでもやってきます。

 文殊さんは「思いを断つことが大切」とおっしゃっています。
 だから、剣を持っていて、その「光の剣」で絶つ。
 文殊さんはウジウジをスパッと断っているのです。

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2008年8月24日日曜日

大敬先生の「般若心経」講義⑤普賢菩薩の心の法


 【菩薩の章】です。

 空海さんは、般若心経を唱えると、文章につられて「菩薩(ぼさつ)」が次々と現れる、そして、あなたの想いの実現のために協力してくださるようになると説いています。

 菩薩の出現の順番は①普賢(ふげん)菩薩、②文殊(もんじゅ)菩薩、③弥勒(みろく)菩薩、④観音菩薩です。


 「色即是空 空即是色」

 普賢菩薩は、白い象に乗っています。目標を立てて、それを願いとして、行(実践)をする時に、その人を守り、指導してくれるのが普賢菩薩です。

 般若心経の「色不異空(しきふいくう)~亦復如是(やくぶにょぜ)」というところを読むと、普賢菩薩が現れると空海さんはおっしゃっています。

 「色即是空(しくそくぜくう)」とは、映像はなくすべてスクリーンは真っ白ということ。
 「空即是色(くうそくぜしき)」は、真っ白なスクリーンなのでどんなことでも描ける。どんな映像も自由なんですよ、ということです。

 “心さん”に「イライラ」「不幸」「ぷんぷん」と書いている上に「幸せ」と書いても、「幸せ」は実現しません。

 「幸せ」と書く前に、その前に書き込まれている悪い文字を消さなくてはいけないですね。

 しかし、どうやって消すのか。消せないからみんな困るのです。

 普賢さんはその消す方法を、「行ですよ」と言っています。

 消す方法のひとつは、般若心経唱えることです。
 肉体にエネルギー持っていくと心にエネルギーが行かなくなります。ですから、読むとすっきりします。

 もうひとつ「足運び法」があります。このことも昔の人はよく知っていました。
 目標が決まったら神社でもお寺でも教会でも自分の足で歩いて行ってみる。
 「御百度参り」がありますが、目標のため100回お参りしてみてください。続けてやらなくてもいいのです。足を運び、100拝してみる。すると、心がすっきりする。目標がはっきりするのです。

 この他に、「善行回向法」もいいですね。
 これは、良いことをすることで心を広くする方法です。
 「エネルギー増える」ことが功徳が積まれることです。
 「徳」とは、人生において使用可能な心のエネルギーのことなのです。
 禅では「功徳」を大事にしています。
 エネルギーないというのは功徳がないということです。
 人が誰もついてこないのは功徳がないためです。

 スポーツすることもいいです。「スポーツ法」ですね。
 スポーツをして、その後、天に向かって「幸せになるぞー!」と叫ぶ。
 すっきりした心で実現を願うので、叶います。

 以上のようなことが、普賢菩薩の方法としてあります。

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2008年8月22日金曜日

大敬先生の「般若心経」講義④この世の仕組み

 【概説の章】

 五蘊皆空(ごうんかいくう)

 五蘊とは「色」「受」「想」「行」「識」のこと。

 命は「永遠の光」です。
 昔からずっとそうでした。
 でも、それだけではおもしろくないので神様は“心さん”をつくりました。

 光が“心さん”に降り注ぎ、当たって通り抜けると、そこには世界ができます。

 この世界のことを「色」と言います。
 その「色」を見て、「受」けとり、「想」い、心に描きこむことを「行」と言います。
 “心さん”がドラマつくることが「識」。
 この「色」→「識」までを「刹那」と言います。
 一巡、一巡でこの世はプツッ、プツッと切れているのです。

 「心に書き込むと、そこに命の本質である光が当たり、「世界(人生のドラマ)」が現れる」

 この仕組みを先人は発見した。これが「五蘊」です。

 「悪循環」はよく知っている方が多いと思うので、「善循環」の例をあげますと、
 この人イヤだなと思う人のことを、ひとつでも良い点を探すように心がけて「ちょっといい人」にすると、それが心に書き込まれ、ドラマ(目の前の世界)でも「ちょっといい人」になる。
 また、良いところを探して、「結構、いい人」と書き込むと「結構、いい人」としてドラマに現れる。
 この世はそういう仕組みになっているのですよ、と教えてくれているわけです。

 “心さん”は、ドラマが大好きです。書いたことをすぐにドラマにします。
 「想」まではカット(除去)可能ですが、一度“心さん”に書いたものはカットできません。

 「観自在菩薩」という神様はこのことを発見して、この世の問題を解決された方です。
 観自在菩薩とは、観ることが自在であり、どんなことでも観ることができるということ。
 観ることで世界を作り直せる、世界を自由につくれる方です。

 ①観方を味方にする
 
 ②「心」が先で「形」は後

 心に映ったことは世界として現れます。
 問題だなと思うことは、心に映る前に消すということです。

 ある方が、結核にかかり、その直後、「心を変える」この仕組みに気づき、最初は無理しながらでも笑うことを練習すると結核がすっかり治ったという話もあります。

 人は一人ひとりが、本質は光です。
 「永遠の光」が自分なのです。
 「永遠の光」のイメージを心に映せるようになると、長生きできるし、豊かに生きられるようになります。

 根本は「我は光なり」です。

 禅宗はこの光を目指す宗派でもあります。

 この“心さん”の仕組み、「我は光なり」を自分のものにしていくと気をつけなくてはいけないことが出てきます。

 「スムージング現象」が起こるのです。
 良いことも悪いこともパッ、パッ、パッとすぐに結果として現れるようになります。

 生活の中で、お薦めするのは、「日拝」です。「日拝」がいい。
 日の出を礼拝する。朝日を心に刻み込む。
 最低100回やると変わってきます。
 般若心経もいらないほどです。

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2008年8月20日水曜日

大敬先生の「般若心経」講義③”心に任せる”と願いごとは叶う

 【経題の章】です。

 般若心経は“心のお経”です。

 心の性質を「摩訶(まか)」「般若(はんにゃ)」「波羅蜜多(はらみった)」の3つあげています。

 「摩訶」は、大きい、という意味です。心の大きさを表しています。

 心というと、“ハート”と言って心臓ぐらいの大きさを連想するかもしれませんが、心は身体より大きく、そこには山や月、太陽も入るぐらい大きいのです。

 「般若」は知恵のことです。
 “心さん”は頭がいい。すべてを知っています。

 外出した帰り、電車の中で雨が降り始めました。
 リックサックの中には大事な本が入っています。
 濡らしたくないので、
 「雨が降ったけど濡れないでよかった」と奥さんに言っている自分をイメージします。
 駅に着くと小雨になっていました。
 効果はあったけど、「僕の力はこの程度かな」と思う。

 そう思いながら空を眺めていると、車がすっと横にくる。
 窓が開いて、「どこまで行かれるのですか?」「それなら、よかったら乗りませんか」と声をかけられる。
 本は無事濡れませんでした。
 “心さん”がすべて知っているので、“心さん”に任せておいたらいいのです。
 自分の力ではなく、心に任せる。
 しかし、任せられない人が多いようです。
 私のような“弱虫”ほど任せられるようです。

 頼み方も大事です。
 「雨をやみなさい」というような自然現象を変えようとするお願い事はよくないようです。


 「波羅」はゴール(目標)のことです。

 「蜜多」は行った(行ってしまった)。

 “心さん”はイメージを自動的に形にしてしまうという力を持っているのです。
 私はこれを「お自動さん性」と呼んでいます(笑)
 自動的にゴールに行ってしまうのです。
 
 「あくび」をします。実は少し前に自分の前にいる人があくびをしていた。周りの行動が自分に影響してくるのです。

 「病気、治れ」とイメージすると病気になります。
 「治れ」という否定語のイメージはなかなか難しいようです。
 ですから、
 「健康になれ、健康になれ」とイメージすることが大切です。

 「広い心」は思いを実現します。
 「のびのびした心」「弾力のある心」「温かい心」「明るく潤いのある心」が心のエネルギーを高めます。

 願い事の「目標」をまず集中してつくります。きちんと確立すると、寝ていても目標は心の中で生きています。
 「お任せ」しておくと、“心さん”は目標に向かって飛んでいきます。
 そのためには「仕事など日常生活をしっかりする」ということが大切。

 目の前のことを大切にしないと、“心さん”が目標に飛んでいけないようです。

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2008年8月13日水曜日

大敬先生の「般若心経」講義②読むだけで成功体験につながる

 大敬先生の2時間の講演の醍醐味を少しでも直接お伝えさせていただくために、講演内容の概要という形で今回はご紹介いたします。
 話の流れも内容もほぼ忠実に記したつもりですが、なにせメモからの文章起こしですので誤解、誤表現、誤字等があるかもしれません。ご容赦いただいたうえで、お気づきになられましたら、後学のためにぜひお教え下さい。よろしくお願い致します。


【般若心経講座 ―心による想いの実現法―】

 般若心経は、「目標達成のお経」です。

 インドから般若心経を持ってきた玄奘三蔵(げんじょう さんぞう、三蔵法師)は長き旅の間、大変な苦労をされたが、苦難に直面すると般若心経を唱えることで乗り越え、目標を達成することができたといわれています。
 
 江戸時代に、塙保己一(はにわ ほきいち)という人物がいました。
 9歳で盲目となり、江戸に出てきたが己の境遇、人生に絶望し16歳で自殺するも助けられ生き残りました。
 「学問したい」という希望を持ち続けている保己一は按摩(あんま)を習い、始めます。
 しかし、お代はお金ではなく、本を読んでもらうとしました。そして、抜群の記憶力でその内容を覚え、学んでいったのです。

 その噂を聞いた旗本の松平氏が感心し、保己一を呼んで一日おきに朝4時から8時まで勉強させてあげることを約束しました。

 「源氏物語」を聞かせてもったことに感動し、保己一は34歳で文献をまとめる作業を手がけることを決意します。

 この時、目標を達成させるために、保己一がやったことは、般若心経を読むことでした。
 1000日間、毎日100巻唱えることを神に約束しました。計10万巻唱えることを誓ったのです。

 41歳で刊行始めます。弟子も増え、作業は順調に進みました。
 しかし、保己一、47歳の時に火事に遭い、それまでの全てが燃えてしまいます。

 これには弟子達も深く落胆し、師である保己一に涙ながらに「先生、これでもうすべて終わりです」と訴えます。

 しかし、この時、保己一は、

 「お前らには手も足も頭もある。それに俺にはない目もあるじゃないか。やり直しや」
 と笑顔で述べ、再建を目指します。

 そして、74歳で記録や手紙にいたるあらゆる資料をまとめ編纂した「群書類従」をとうとう仕上げることができたのです。

 その後も生涯に渡って保己一は、般若心経を1日100回唱えたそうです。

 保己一にまつわる有名な話は他にもあります。
 ヘレン・ケラーが保己一の伝記を読んで大いに励まされ、発奮したのです。
 ケラーは、初来日した際、渋谷の保己一縁の地をまず訪れ、保己一の銅像をさわり、机にふれて

 「自分が今あるのは、この人の御蔭です」と言ったそうです。


 鍵田忠三郎(かぎたちゅうざぶろう)は、奈良市長も務めた政治家ですが、38歳の時、結核になりました。 
 当時、結核は不治の病で、医者から「残り2年の寿命」と診断されます。

 鍵田は、弱ったからだで四国のお遍路に行くことを決めます。1番札所から歩みます。進んでも、進んでも死にません。でも、28番札所までたどり着いた時、倒れてしまいました。

 病状は悪化し、病床で一度息を引き取ります。しかし、間もなく再び息を吹き返しました。
 この時のことを鍵田は「大きな命を知る」と述べていますが、臨死体験を経て再び生を得たのです。
 起き上がり、検査した時には結核はすっかり無くなっていたのです。
 
 「おまけの人生」と生き返ったと鍵田は述べ、生きている間に般若心経を100万巻あげるとの約束を神と交わします。
 
 保己一にして10万巻なのに、これの10倍です。
 この約束によって鍵田は簡単には死なないという運命を得ました。
 神様との約束だから、果たすまで長生きすることになるからです。

 神様との約束にはこうした工夫も実は必要なのです(笑)


 「シェルドレイクの仮説」というものがあります。
 これは「直接的な接触が無くても、ある人や物に起きたことが他の人や物に伝播する」という学説で、「経験の場」ができると、次に他の人の経験がたやすくなるということを説いています。

 そうした意味で、般若心経は、先人が般若心経による目標達成の“経験の場”を開いてくれているといえます。

 般若心経は読むだけでそうした成功体験につながるのです。

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2008年8月12日火曜日

大敬先生の「般若心経」講義①「先人はすごいものを残してくれました」

 立花大敬先生の10年ぶりとなる東京講演会のテーマは「般若心経」であった。

 このブログでもこれまで何度か「般若心経」について書いてきたが、僕は5年ほど前から写経を書き始め、これまで900枚ぐらい書いてきたが、その内容、意味等についてはあえて考えないようにしてきた。

 なぜなら、写経を教わった方々から「意味とか中身は深遠すぎてわからないものなんだよ」「私もひたすら書いているだけ」などと言われてきたからだ。

 その当時、すでに2万巻とか3万巻をひとりで書いてきた人から「わからない」といわれるとやはりそれなりの信憑性がある。

 また、般若心経は中学生の頃から諳(そら)んじ(させられ)、それなりの興味はあったので、写経を書き始めるずっと前に般若心経本を数冊か読んだことがあったが、「なんだかよくわからない」という記憶しかなかったので、そういうものなのだろうと思い込んでいた。

 それが、ここ数ヶ月、般若心経の解釈に関して興味を持ちなさいというシンクロがいくつか起こっていた。
 そのへんはブログで紹介していないが、難解でうまく言葉にできるまでは至っていないためで、「この世の仕組み」「人が向かうべき未来」を示す叡智(えいち)が般若心経には記されているらしいというところまではぼんやりわかってきた。

 そして、立花大敬先生が東京で講演するということを偶然知り、その場で満席だろうなと思いながら電話してみるとまだいくつか空席があると聞かされてすぐに予約し、10日の講演会を待った。

 
 講演当日、穏和な笑顔をうかべた大敬先生は、開口一番、

 「般若心経は目標達成のお経です」と述べられた。

 過去、人類には数々の般若心経による成功体験がすでにあり、そのため、現代の人が唱えることでその偉大な成功体験に繋がっていく流れができているのだそうだ。

 そして、

 「先人達は、すごいもの(秘法)をこの般若心経という形で、残してくれました」

 と般若心経のその「すごさ」について話し始めた。




 「般若心経に関わっていてよかったな~」と以前、玄蔵三蔵の旅の話を聞いた時に思ったことがある。

 http://kansya385.blogspot.com/2008_05_01_archive.html(5月17日付)

 今回の話はそれと同じぐらい、いやそれ以上に、般若心経に関わっている方々にとって大いなる歓びとなる話であると僕は確信する。
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2008年8月11日月曜日

「休息時期」が明けて西郷さん銅像清掃と大敬先生

 夏風邪が良くなってきたと思ったら、パソコンが・・・、と続き、「どうやら休息時期だったのか」と気づく。

 双方の細かな「原因」も次第にわかってきたら、


 「すべての『因』に感謝する『心』が『恩』」である」という言葉に出会う。


 こんなシンクロにも感謝、感謝です。


 10日日曜日は、月1で行くことに決めた上野の西郷さん周辺の清掃に行き、それを終えて午後からは渋谷で立花大敬先生の講演に向かう。

 教師になったために、事実上10年ぶりだというこの講演は主催者の社長との古いつきあいから実現したことを会場で知った。

 「定年が5年後なので、次は早くて5年後です」という貴重な貴重なご縁だった。

 表情、語り口、そして発する気すべてがやさしさにあふれた人だった。

 講演を終え、日帰りで福岡に帰るために、参加者の間をリックを背にさりげなく去っていく先生を見つけた。
 誰も気づかないようなのでその背に声をかけ、今日のお礼と「福岡に今度うかがいます」と伝えると、「ぜひ、いらしてください。向こうではゆっくりお話できます」と、近くで見ると舞台上よりも、もっとやさしさにあふれたその笑顔をたたえながらそう返答していただき、握手して別れた。

 講演内容は「般若心経」についてだったが、想像を遙かに超えるすばらしい内容だった。

 頭の中を整理して近くご紹介したいと思う。

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2008年8月6日水曜日

「天界の禅者大いに語る」の中のいい話

 10日日曜日に立花大敬先生の講演に参加できることになった。
 数ヶ月前から著書を通じて感銘を受けていたが、九州をフィールドとして活動されている方なので、まさかこんなに早く直接話を聞けることになるとは思ってもみなかったからとってもうれしい。

 テーマは「般若心経」についてである。
 
 今年はさまざまな方向からこの「般若心経」に関するシンクロが続いているので、自分にとって何か大切な意味があるのかも知れないと思い、異なる著者の解説に目を通してきたが、そうした意味でも10日は楽しみである。

 大敬先生の古い著書「天界の禅者大いに語る」を昨日、読んでいた。
 東京は朝から天気が不安定で、場所によっては集中豪雨となり、事故が発生するほどだった。
 仕事の訪問先を辞し、町を歩いていると雷が鳴り、空が真っ黒く変わってきたので、コーヒーショップに寄り、窓に面した席に腰掛け、「天界の禅者大いに語る」の続きを読んでいた。
 しばらくすると大粒の雨粒が窓を叩き、それを合図とするかのようにして大雨が激しく降り始めた。
 そんなあまり日常的ではない状況で読んだからではないと思うが、読み終えてしばらく心を落ち着けるために本を閉じ、雨空を眺めていなくてはならないほど胸にしみるいい話があったので、ちょっとご紹介したいと思う。



 これは、内垣日親先生の御本の中にあった話です。
 先生は若い頃、たしか姫金神教という大阪森の宮にある教会で、その教祖について修行しておられました。
 ところが、そのおばあさん教祖は、自由に雨を降らせたり、止めたりされるのです。先生は、それが不思議でしょうがない。いったい、どんな呪文をとなえ、どんな印をむすべば、そんな事ができるのか知りたかった。それで、ある時、思い切って、教祖さんに質問したのです。
 「いったい、どうやって雨を降らせたり、止めたりするんですか」
 すると教祖は言われたのです。
 「ああ、そんなこと、簡単やがな。それはなあ、私が空に向かってなあ、雨を降れ、というたらな、雨が降ってくる。雨よ止まれ、いうたらなあ、雨が止むんや」
 それで、先生はギャフンときてしまったのです。まことにそうにちがいないと納得されたのです。
 この教祖さまは、まことに一点の私心もない、術も策もない、そんなまるで子供のような無邪気なお方であったそうです。
 お金に困っている信者さんが来たら、あるだけのお金をさっとあげてしまう、そんな風なお方であったそうです。
 ひとつだけ、私が最も感動した話を紹介します。
 この内垣先生は、もうその頃には、この教会の副管長になって、教団の一切を取りしきっておられました。
 ところでが、神様から教会を出よ出よといわれる。この教団の神様が言われるのです。出てヨーガの勉強をせよと言われる。それがたび重なるので、内垣先生は、教祖にそのことを相談したのです。
 「私が出たら、この教会は、たぶんつぶれてしまうでしょうがどうしましょうか」
 この教祖はすぐに言われました。
 「よろしい、出ていきなさい。この教会ぐらいつぶれてもかまいません。それであんたが大きくなったらいいのやから」
 どうですか、こんなに私心のないお方なのです。
 そんな<まこと>のお方だから、その人の言葉は<真言(まこと)>になる。そして<真事(まこと)>となり必ず実現するのです


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2008年8月5日火曜日

祈りは通じる

 元カリフォルニア大学の心臓病専門の教授であったランドルフ・ビルド氏は、祈りが病気を癒すのか実験をした。
 
 自分の病院の心臓病の患者をAとBに分ける。
 コンピュータを使いランダムに分け、その分類は医師も看護婦も患者も知らないようにする。
 Aは祈ってもらうグループ、Bは祈りを受けないグループとした。

 祈り手は宗派にかかわらず募集し、患者の名前、症状を教え、毎日その人のために祈るよう依頼した。
 そして、祈り方はその人に任せた。

 その結果は次のようなものであった。
 ①AはBに比べて抗生物質が必要であった人が5分の1だった。
 ②Aでは心臓病のため肺気腫になった人がBの3分の1だった。
 ③Aには、のどに管を入れることが必要になった人はいなかったが、Bには12名いた。

 この実験から、祈りは病気を癒すことがわかった。
 また、宗教や宗派でその有効性が変わるわけでなく、「想い」が身体を超えて相手の病気を癒すことが明らかになった。

 祈りは確実に通じるのである。

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2008年8月3日日曜日

「西郷さんの御陰」


 先週のことになるが、敬天愛人フォーラム21が主催する講演会にお邪魔してきた。

 今回は、奄美大島出身で、島唄の第一人者である朝崎郁恵さんの講演である。

 7月はじめに、上野の西郷さんの銅像周辺の清掃に参加したのがご縁で、声をかけていただき、講演会には初めての参加となる。

 神田駅すぐの会場に開演時刻7時の20分前にうかがうと、「西郷隆盛会館」にはすでに定員枠に近い30人ほどの参加者が集まり、熱気にあふれていた。

 受け付けをすませ空いているスペースを見つけて座り、会場を見回すと女性の参加者が結構多いこと、そして年輩者が多いことに気づく。平均年齢は65~70歳といったところで、僕などはダントツの“若手入り”であることは間違いない。

 定刻ちょうどに開会。まずは起立して、国家「君が代」斉唱であった。

 「思想的に右も左もなし。西郷さんが歩まれた通り、我々は真ん中を歩んでいく。歌いたくない方は歌わぬももちろん良しとしております」との司会者の断りがあった後、国家斉唱が始まる。それにしても、おじいさま方は良い声をしていらっしゃる!

 その後もすぐには講演には入らない。西郷さんの好んだ言葉である「敬天愛人」の教えを、そして上野公園の西郷さんの銅像の台座にも刻まれている「西郷隆盛を称える辞(ことば)」を内(うち)代表世話人が一小節ずつ諳(そら)んじるのに続いて全員が声をそろえて唱えていく。老若男女関係なく、まるで寺子屋の生徒のように。

 この日の朝崎さんの歌う島唄は哀切あふれるものであった。歌に先立って朝崎さんから「島唄は島(奄美大島)の歴史を歌っているのだ」との説明があったが、沖縄の島唄の明るさをイメージとは明らかに異なっていた。単に選曲がそうだったのかもしれないけど。

 奄美大島は西郷さんの流刑の地である。この地で家庭を築き、本人も一時期はこの地で終生暮らすと考えていた場所である。
 そして、どこにいても人をこよなく愛する西郷さんは、島の人々には教育者として思想と教養を伝え、島民に自立自尊の気概の大切さの種をまく役割も担った。
 朝崎さんは70を過ぎたが、新たな挑戦を今後も続けていく決意を西郷さんに伝えたくて、今夜は”奉納”のためにここで歌うことにしたと説明した。

 公演後の懇親会は大変活気あふれる宴となった。南九州の宴は老若男女関係なく元気あふれ、熱のこもったものになるのだが、そのことを知らない他の地の出身の方は最初は少々驚かれたことだろう。

 宴もたけなわになった頃、参加者一人ひとりによる自己紹介が行われ、これがなかなか印象深いものであった。
 代表世話人の内さんが奄美大島同様、西郷さんが流刑されたことのある沖永良部島の出身であることもあってか、同島の出身の方や喜界島の方など島出身の方も数多くいらっしゃっていた。
 この島の出身の年輩の方々があいさつの中で西郷さんを語る時、必ずといっていいほど、「今の自分たちがあるのは西郷さんの御陰なんです」とおっしゃるのだ。
 話をよくうかがってみると、島の家庭の多くは子供の教育をことのほか大切にするのだそうだ。親は自分の食べるものを削ってでも子供を学校にあげようとする。これは、西郷さんが島に来てから芽生えた考え方で、その教えを得た環境で育ったからこそ、自分たちは島を離れても堂々と生きていけるのだと皆さんが笑顔で話してくれた。

 西郷さんは、昨年、生誕180年を迎え、今年は181年目である。
 それだけの歳月を経てなお、「あなたの御陰で今の私たちがある」と言われる西郷さんという人物を思い、慕いながらうまい酒を酌み交わすことの出来たすばらしきひと夜であった。

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2008年8月2日土曜日

「ノルウェイの森」が映画化

 最近はあまりにもネガティブな報道が過ぎるので、テレビも新聞もほとんど見ることはないが、友人に知らされて、思わず「えっ!?」と一瞬、固まってしまい、その後なんだか懐かしくうれしくなったニュースが、村上春樹の小説「ノルウェイの森」が映画化されることになったという知らせである。

 ちょうど20年前に出された作品である。村上サイドからなかなか許可が出ないという話はずいぶん前に何かで読んだ記憶がある。
 当時、村上作品はデビュー作から読んでいて、新刊が出るというのでウキウキしながら本屋に向かったら、あの上下巻が真っ赤、真緑のクリスマスのような派手な表紙である。2冊を手に持って、レジに並んでいるのが少し恥ずかしかったことを今でも覚えている。
 
 そして、この作品で村上春樹は一躍メジャー作家の仲間入りをし、僕にとってはなんだかちょっぴり遠い存在になったような寂しさを感じた作品である。
 
 映画化については、非現実的な登場人物がいない分、他の作品に比べると映像化しやすいような気がするのだが、ずいぶん長い歳月を要したものである。

 昔、「風の歌を聴け」が映画化されたことがあり、しかも大森一樹がメガホンを握ると知り、これは結構観れと踏んで劇場に行ったら、とんでもなくひどい作品だったという経験がある。この作品で“僕”を演じていたのはなんと小林薫だった。

 そうした意味では、ベトナム系フランス人の監督が異なる文化からクールな観点で撮るということになれば、いい選択なのかもしれない。
 
 20年前に読んだ記憶なので不確かだが、作品全体を通して“静謐さ”がただよっていたように思う。特に僕の中では静かに降り続ける雨のシーンが随所に思い浮かんでくる。「雨を上手に撮れる監督だったらいいな」と思う。

 “僕”がガールフレンドと古い木造住宅の二階のベランダから火事を眺めるシーンが、まるで自分が経験したことのように今でも強く印象に残っている。そのシーンも映像で観てみたいなと思う。

 2010年に公開されるそうである。その前にキャストが誰になるのかも楽しみである。

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2008年7月30日水曜日

夏風邪

 夏風邪をひいたらしく、この2週ほど体調がすっきりしない。
 回復期に入っているけど、その谷間のようでモチベーションがまったく上がらない。
 こういう時はネガティブなことを引き寄せがちになるものとどこかで覚悟している。
 その通り、連日、結構、重いテーマや思い相手との関わりが続く。

 この2年ほど冬場も風邪ひとつひかなかったので、何かの変化、何かのメッセージなのだろうと考え、原因や意図を探索するが、「これだ!」という答えも鈍った頭では浮かばない。

 結局は、いつも通り早起きし、朝日を拝む「日拝」を行い、右肩の上にいる守護霊に本日もよろしくとあいさつし、「幸せのソフト」として以前ご紹介した「親切」「明るく朗らか」「謙虚」「素直」「感謝」の五カ条を心の中で唱える。

 「再来週いっぱいでとりあえずこの世を終わりにします」
 と神様に言われてたとしても、きっと今ならこの習慣で連日変わらずいくな、という感じがする。


 男として尊敬している大好きな知人からおととい
 「自裁すること考えたけどやめた」
 と言って、手渡された

 ジョー・ヴィターリ、イハレアカラ・ヒューレン著「ハワイの秘法」を読む。

 表紙を見た瞬間、「こんなことあるんだ」と驚いた。
 待ち合わせた時間より早かったので、本屋に寄り、手にして迷いに迷い「まだ家に読んでいない本があるから次回にしよう」と買い控えたその本だったからだ。

 「今回のメッセージはこの本の中にあるのかもしれない、いや、きっとそうのだろう」とどこかで確信しながらぺージをめくる。

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2008年7月29日火曜日

秩父観音巡礼に想う 「知足のつくばい」



 ご存知の人もいらっしゃると思うが、京都の竜安寺には「知足のつくばい」がある。

 「つくばい」とは用を足した後に手を洗う場所のこと。石の中央には四角く穴が彫られていて水がたまるようになっている。

 四角の中央の穴を「口」という文字にたとえ、上下左右の文字と組み合わせて右回りに読むと、「吾唯足知」。

 「吾(われ)、唯足(ただた)ることを知る」となる。

 これは禅の格言である
 「知足の者は貧しといえども富めり、不知足のものは富めりといえども貧し」を示したもの。

 急な石段を登り、ようやくたどりいついた31番札所の観音院の境内で、お詣りの前に手を洗おうと視線を下げたところに、この「知足のつくばい」はあった。


 本家の京都・竜安寺の「知足のつくばい」を寄贈したのは水戸黄門で有名な水戸光圀(みつくに)である。

 「自分におごり、高ぶりが見えたら、いついかなる時もいさめてくれ」と家臣にいつも言っていた自らを厳しく律することのできる名君でもあった。
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2008年7月27日日曜日

秩父観音巡礼に想う 「銀座まるかんの案内板」



 「観音様」の導きに関わると思われる現象がかなり多いため、「秩父観音巡礼に思う」というタイトルははずしていたが、今回はちょっと復活。

 観音様巡りをしていてふと気づき、感心したことがある。

 それは、観音巡礼の34か所あるお寺すべてに銀座まるかんが、「案内板」を寄贈していたことだ。
 1番札所から5、6番札所ぐらいまでは「昔懐かしのアニメの一休さんを模したイラスト付きの案内板があるな~」くらいにしか気にとめていなかったが、案内板の裏側にまるかんの関係者の名前が記されているのが目に入り、それから注意して確認していたら、すべてのお寺にまるかんが寄贈していることがわかった。

 ご存じの方も多いと思うが、銀座まるかんの社長は斉藤一人さんという人で、93年から全国の高額納税者番付で10位以内にただ一人、11年連続で入る。ある意味、歴代の日本人の中でももっともお金に愛された人物のひとりである。
 人として、商人としての生き方、考え方に関する著書も数多く出していて、その多くがユニークで大変におもしろいのでご一読を。

 巡礼地に案内板を寄贈することで営業面での効果を単にねらったものではないということは一人さんの著書を読めばわかる。

 秩父巡礼地という歴史と伝統のある場所は、そう易々とは関わりを持てるものでもない。

 世話になった旅館の女将さんとたわいのない話をしていると、
 「観音様を巡り祈願すると不思議なほど営業ノルマが達成できると言って、休日に観音様をまわっている女性グループがたくさんいますよ」と言っていたこともどこかで関わりがあるのかも知れない。

 観音様は奥が深い。一度の巡礼で見える部分はごく限られたものであると心しよう。

 観音様に対して多くのお年寄りが熱心に手を合わせ祈る横で、今日も一休さんもどきのまるかん案内板がニッコリ笑いかけていることだろう。


 「やる気のある会社の取り組みの凄味をひとつ垣間見たような気がするな~」と思い出しながら改めて感心していたら、仕事で銀座まるかんの前を通ることになってしまった。
 玄関外に無料のくじ引きがあることに気づいた。


 神社でもおみくじを引くことなど滅多にないが、この縁に感謝して引いてみた。

 手にした紙にはこう書かれていた。

 「私は前進します みんなが待っている所まで ひとり」

 なんだか意味深な感じもするが、素直に「よし、前進しよう」と思った。

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2008年7月26日土曜日

夏祭り前夜




 夏祭りのシーズン到来。

 靖国神社の御霊祭りから日本の祭りが始まるという人もあり、そうであれば今年はその始まりに立ち会えたことになるのでうれしい。

 地元でも今日から2日間、夏祭りが始まる。
 この日は毎年、会場に敷物を広げ、酒や肴を持ち寄って、盆踊りを眺めながら、近所の友人、知人らと飲み語らうのが恒例行事となっている。数日前から夏祭りで会いましょうとの声を掛けられる機会が増えて、気分はますます盛り上がってくる。

 午後早い時間から太鼓を打つ音も鳴り響いてくることだろう。本格的な夏の到来を告げる音にも聞こえる。


 2週間ほど前から夏祭りの実行委員の人々が、櫓(やぐら)を組んだり、ちょうちんを下げたりし始めていた。本番3日ほど前には会場の準備もほぼ終了している。

 本番は大いに楽しみだが、個人的に毎年楽しみにしているのが、「祭り前夜」である。

 夏祭りの前の夜、ずらりと下げられたちょうちんすべてに灯がともり、深夜までともされ続けるからだ。

 僕はこの町に移ってきた初めての夏、仕事で遅くなり駅からの暗い夜道を歩いていた。
 帰宅途中にある夏祭り会場のグラウンドまで来た時、数多くのちょうちんの赤っぽい淡い光で煌々(こうこう)と照らされている非日常的な空間が目の前に現れ、僕は驚いてその場に一瞬、立ちつくした。

 誰一人いないグラウンドの隅のベンチに腰掛けて、しばらく何をすることなくその風景を眺めていた。自分だけの空間のような気がして、なんて贅沢なんだろうとその空間にしばし身を任せるままにしていた。

 前夜に深夜近くまでに全てのちょうちんを点灯させている本当の理由は知らないが、たぶん電球のコンディションを確認しているのではないかと思う。

 省エネが声高に言われるご時世になったから、来年もまたこの“前夜”が続けられるかどうかはわからない。今年は写真に納めさせてもらった。

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2008年7月25日金曜日

立花大敬先生の「道」

 
 先日、掲載した立花大敬先生の「食事係の心構え」がおもしろい!との感想を友人がメールで送ってくれたことに勇気を得て、感謝(このツボは自分だけなのかと思っていたのでホントに嬉しかったです!)の気持ちを込めて、立花さんの本の中でもうひとつ僕が心動かされた話をご紹介します。

 立花さんの人となりを知るうえでも、参考になる文章だと思います。

 
 またまたちょっと長いのですが、ご容赦を!



 

 僕の前に道はない
 僕の後に道はない
 僕の一歩が道となり
 次の一歩が道となる
 僕が道だ
 僕が道だ

 今回はこの詩の意味を考えてみましょう。

 私は若い頃、自分が歩むべき道がわからなかったのです。途方に暮れて、誰か「君の道はこれだ」と教えてくれる人はいないか、自分の道を指示してくれる書物はないかとさがし求め続けました。

 何度も『これだ!』と思いこみ、裏切られるという体験をくりかえしてきて、四十を過ぎてようやく、そんな道なんて実は無かったんだと気づきました。それが、『僕の前には道はない』です。

 なぜないのでしょうか。
 それは実に単純なことで自分は自分であって人ではないからなのです。

 私はイエスでもないし、ブッダでもありません。私は私という、この広い宇宙にたった一つの独自の生命体なのです。

 それは、イエスでもブッダでも同じことです。
 イエスは、イエスという独自の生命体にふさわしい、こうでしかあり得ないという道を歩まれました(そして、今も、もう地球での体験などケロッと忘れて、“今”の道を歩みつづけておられるでしょう)。ブッダもブッダだけが歩み得る道を見事に歩まれました。

 でも、それはイエスの道であり、ブッダの道であったのです。
 それは私の道じゃない。イエスさまの足跡を私がたどって歩いていっても、それによって私といういのちの独自性を発揮することはできません。

 ある有名な禅僧の弟子Aさんがいました。Aさんは師匠がなくなられた時、かたみの老眼鏡をもらったのです。Aさんはその時以来そのメガネをかけはじめたのです。まだ若い人だったのに、お師匠さまのマネをしたいのでしょうね。わざわざ不便をしていたのです。そして、年をとって、「ようやく、師匠のメガネでハッキリモノが見えるようになりました」と喜んでおられました。

 これも何だか変でしょう。イエスの道、ブッダの道をその通り歩もうというのも、これとまったく同じことなのです。人のメガネをかけないで、自分の眼でしっかり見る、あるいは必要なら、自分の今の眼の状態にピッタリのメガネをかけることです。

 モーゼの前に現れた神は『アイアム ザット アイアム』とおっしゃいました。
 これは、平たく訳すと、『私は私だ(オレはオレだ)』という意味です。

 神とは何かというと、そのように、自分が何か外の存在を頼ったり、進むべき道を教えてもらおうと依存せず、自分が自分の今・ココにしっかり腰をすえている、その姿を“神”というのです。

 ホトケ
 ほっとけ
 あんたはあんた

 イエス
 きりすて
 あんたは
 あんた

 私の絵葉書に、子猫を描いて、『へたくそでも自分の足で歩こうね』と買いてあるのがあります。

 私のこれまでの人生の歩みぶりは、紆余曲折(うよきょくせつ、曲がりくねっていること)があって、人から見てずいぶんカッコ悪いものかもしれませんが、私はイエスにしろ、ブッダにしろ、道元禅師にしろ・・・、これらの方々の歩き方をマネしませんでした。

 カッコ悪くても、へたくそでも、自分の足で、自分の判断で、自分の全責任で、一歩、一歩、ヨロヨロでも、オロオロでも、進んできました。
 これが私の生きる道で、これが僕にしか歩めない、僕だけの独自の道であったのです。

 どんなにちっぽけでも
 どんなにみすぼらしくても
 自分でつくったもの
 自分のいのちだから
 湧き出したもの
 それが一番輝いている

 風が吹けば
 転べばいい
 穴があったら
 落ちればいい
 どっちへどう転んでも
 君は君なんだから


 過去にもいろんなことがありました。『生活能力がないヤツ』と言われたり、『三十にもなってウロウロしているのか』としかられたり、軽蔑の眼に出会うことも多かったのですが、これらはすべて過去のことです。過去とは過ぎ去って、もう無いから過去といいます。
 もうないんだから、アカンタレの大敬さん、甲斐性無しの大敬さんも、もう無いのです。
 以前の私は、そんな、人から見た“大敬像”で、自分を決めつけてしまって、そんな“決めつけ”にもとづいて、自分の歩み出す方向を決めるというようなバカなことをしていました。
 四十をすぎて、ようやく『僕の後に道はない』と気づいて、今・ココの自分が、まっ新(さら)な、『はじめの一歩』を踏み出せるようになりました(八十からでも、百歳からでも人は新しく生まれ変わることができます。なぜなら過去はないからです)。

 雲門禅師はある月の十五日の日に、弟子たちに次のように質問されました。
 「十五日以前のことは問わない。十五日以後のことを一言いってみなさい」

 『十五日以前のことは問わない』、過去はもうないんです。以前は社長だった、以前はアカンタレだった・・・、すべてもう消え去ってないのです。
 このように、過去をすべてリセットしてしまって、また、まったく道のない未来の大地に向かって立った今、『君はどのように一歩を踏み出してゆくのか、一言で言ってみなさい』とおっしゃっているのです。

 この方向に踏み出せば、先に毒ヘビがいるかもしれない、この方向に行けば、落とし穴があるかも知れない、こちらに行けば宝物に出会うかもしれない、・・・。

 この雲門さんの問いに対して、弟子たちは答えることができませんでした。
 そこで雲門さんは、「私なら、日々是好日(にちにちこれこうにち)と歩いて行くよ」と答えました。

 どの日も、どの日も好日、最高の日。
 毒ヘビに出会ってよき日、落とし穴に落ち込んでも最高の日!と僕は歩いていくよとおっしゃっているのです。

 私が、人に依存せず、私の全責任で決断し、思い切って踏み出した道、この道はすべての比較を超越して最高の道、絶対の道です。

 わがいのちは強く、たくましいのです。毒ヘビに出会っても、落とし穴におちこんでも、そのことを栄養分に変えて、一層大きく成長していくのです。
 だから、安心して悩んでいい、迷っていい。

 これらすべての経験をふまえて、私たちは必ず、いつの日か、“ひとつのいのち”の故郷(エデンの園)に帰りつくことが決まっているからです。

 今日(きょう)ノ
 生日(いくひ)ノ
 足日(たるひ)ニ
 (祝詞(のりと)の一節より)


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2008年7月24日木曜日

我が家に神棚がやってきた




 我が家に神棚を設けた。
 あまりにも自然な流れでやってくることになったので、これも観音様の導きなのかもしれないなと思った。

 知り合いに神棚を商いとする人が何人かいるが、大きく仰々しいものは意識してやめた。
 「小さくても立派に神棚してます」というタイプの神棚を選んだ。

 またひとつ自分と向き合うよき機会に恵まれたと感謝している。

 これから神棚を持つ生活の始まりである。

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2008年7月23日水曜日

今日が「お金がどんどん入ってくる財布」取り替えの日

 5月に古神道の秘術の中にも「お金がどんどん入ってくる財布」と巡り会う方法があると教わり、ご紹介した。


 この方法は至って簡単で、
 「甲子(きのえね)の日に財布を買うこと(もしくは作ること)」。

 その「甲子の日」が、本日7月23日(水)なのである。

 甲子とは干支(かんし)60通りの中で一番始めに当たる「物事の原点の日」。
 この日を持って新しい財布を手にすると、それまでの苦しい状況ややりくりに困った内実を消し去り、豊かなお金の巡りへと導きがあるのだそうだ。

 ちなみに、次回の「甲子の日」は、約2カ月後の「9月21日」。

 ご興味がある方は「善は急げ」!

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秩父観音巡礼に想う 「食事係の心構え」

 

 秩父巡礼を始めて間もなくすると不思議なことが続々と起こり始めた。
 問題が解決したり、不安が解消されたりといった現象的なことだったり、人や物事との思わぬ喜びと驚きの出会いだったりした。
 不思議なこととはいうけど、たいがいは「あれっ、これは今までにない流れだな」と僕自身が感じることで、人には伝えにくいような些細なことも多いので決して大層なことばかりではない。

 自分自身に変化があるから、目の前の現象が変化するわけだが、変化のきっかけを与えてくれているのは観音様なので、「やはり観音様はいるのだな~」と僕は今回の旅を通じて確信した。

 今日はその中からうれしい作者との出会いについて。
 その人は、「立花大敬先生」。
 なぜ、「先生」をつけるのかというと、現役の高校教師だからだ。
 簡単にプロフィールを紹介すると、
 1948年大阪生まれ。大阪大学にて生物工学を研究。19歳(大学在学中)、禅に入門。以後、曹洞、臨済等の諸老師に指導を受けてきた。42歳、天命を知る。48歳、『しあわせ通信』を開始。著述、講演活動を展開中。

 著書も数多く出されているが、書店売りはほぼまったくといっていいほどされていない。だから名前だけは聞いていたが、一冊も読んだことはなかった。
 それが、朝4時に起きて巡礼の準備をしている時、ポンと立花大敬さんの名前が頭に浮かび、出発前で慌ただしいにもかかわらず、ネットで探し、通販で注文していた。
 その本が届き、読み始めたのだがおもしろいこと、おもしろいこと。
 禅の世界の人なので道元さんやお釈迦様がよく出てくるが、時には旧約聖書や故事にまで話題を広げながら、神々のこと、言葉のこと、この世の仕組みのことなどをわかりやすく紹介している。

 この中からまずは電車で読みながら思わず吹き出しそうになったお話をひとつ(ただ、知人に読んでもらっても全然笑ってもらえなかったので、「笑える」部分は差し引いて読んでください)。


 道元禅師が説かれた「食事係の心構え」について紹介してきました。

 でも、こんなのはみんな無駄でつまらないことに思えますね。

 世界はこんなに広いのに、ちっぽけな、うす暗い台所にこもって、トントントン、キュウリを切っている。何とつまらん、面白くないことをやっているんだろう、なんて思ったことはありませんか。

 でも、あえてそんなくだらない作業に身を入れ没頭してゆけば、そこに宇宙的なものが宿ってくるから不思議なんです。

 無心にトントントンと大根を切る、そのひびきが宇宙いっぱいに広がって、そのひびきで世界の安定をサポートしているんだといえば驚かれますか。本当はそうなんですよ。

 二流、三流の人が本を書いたり、講演したりしています。

 本物の、一流の聖者は台所で人しれず、トントントンと漬物を切っています。そのトントントンが聖書以上の聖書であり、仏典を超えた仏典なのです。

 無着(むじゃく)という僧が典座になって、台所で仕事をしていた時、光輝く文殊ボサツが突然カマドの前に出現されて、「無着よ」と呼びかけられました。

 すると、無着は、「うるさい、今仕事中だ。邪魔するな」と丁度手にもっていたひしゃくで文殊さまを打って追い払いました。

 今、私がするこの作業には大宇宙がこもっているんだ。文殊といえど、イエスといえど、この宇宙的なわざの邪魔をすることはできないぞというゆるぎない大信念を持っておられたのですね。



 お坊さんって、悟りを開くために毎日毎日厳しい修行をしているんです。
 それを導く役割も担う菩薩さまがせっかく現れてくれて「おい、無着よ」と声をかけてくれているのに、「あっち、行け」とひしゃくで打って追い払うんですよ。
 その情景を想像すると、僕はなんだかおかしくなって笑いが込み上げてきて仕方がなかったです・・・。


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2008年7月21日月曜日

秩父観音巡礼に想う  「オン ニコニコ ハラタテマイゾ ソワカ」




 18番札所の「神門寺(ごうとくじ)」の境内に、そのお地蔵さんはいらっしゃった。

 静かで穏やかな笑顔をたたえながら。

 名は「ニコニコ地蔵尊」。

 解説の碑には、ニコニコ地蔵の縁起がこう記されている。

 お地蔵様の御真言をオン カカカビ サンマエイ ソワカ という。

 ある和尚は、わかりやすく 「オン ニコニコ ハラタテマイゾ ソワカ」 と唱えた。

 カカは母の心限りなく大きく、広く、深い愛情をいう。

 お地蔵様は何時どこでもすばらしいほほえみを浮かべてすべての人々をいつくしみ、あたたかく見守っていてくださる。

 「疲れた身体をこの笑顔に癒され、ユニークなご真言を目にして笑みを浮かべ、新たな気持ちで再び巡礼の歩みを始めた人々がこれまで数多くいたことだろう」と秩父の澄んだ青空を眺めながら思った。

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「延命十句観音経」ここで聴けます

 命を延ばすというお経「延命十句観音経」の音声がYouTubeで聴けると友人が教えてくれた。

 http://jp.youtube.com/watch?v=tWQHIVgdO9E

 般若心経も人それぞれ唱え方に微妙な違いがあったりするので「これが正解!」というものはないのだと思う。何かの参考になればと思いお知らせします。

 延命十句観音経は、江戸時代に白隠禅師という臨済宗のお坊さんが、北野天神の神様に、このお経を広めて多くの人を苦難から救い出してほしいと頼まれたことから始まったそうだ。

 白隠禅師は「延命十句観音経霊験記」という本を書いていて、この中にはお経を唱えて救われた人々の体験談が数多く集められているらしいので、近く読んでみようと思う。

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2008年7月20日日曜日

トランプにみる宇宙の法則

 トランプを裏返しておいて、「スペードが出てほしい、スペードが出てほしい」と強く思いながら、トランプをひくと、スペードが出る確率がグンと上がる。

 次に「ハートよ、出るな、ハートを、出るな」と強く思い、トランプをひくと、意外なことにハートの出る確率もやはりグンと上がるのだ。


 これはいくつかの「宇宙(神様と言ってもいいかもしれない)の法則」をよく表している。
 心に描いた思いは、必ず叶えられる。強く何度も思うともっと叶えられるようになる。
 しかし、「いい」と「悪い」の区別は基本的にされない。「いい」にしろ「悪い」にしろ、思うとそのイメージの強さが叶えられてしまう。意識するとそれが目の前に現実化されるわけだ。

 だから、人や会社や家庭への不平不満、愚痴、陰口、悪口を人のこと、自分じゃないこととして言っているつもりでも、宇宙の立場としては「その人に現象として叶えてあげればいいんだな」ということになる。
 このため、悪口を言った相手は(改心して)良い人に変わるどころか、その人が言った通りのいじわるで陰湿でどうしようもない相手としてさらにパワーアップしてその悪く言った人の目の前に登場することになる。

 もうひとつは、この宇宙の法則を知るとネガティブナことは考えない、関わらないということがとても大切だということがわかってくる。
 イヤなことが起こっているということは、以前、イヤなことの“種”を自分がまいているからなのだ。
 その“種”をまいたのがどんなことで、いつのことだったのかと探す(基本的に数ヶ月、数年前の一瞬のことを思い出すのはかなり難しい)よりも、イヤなことがあった時にはそのことに対して、(本当は思っていないけど)「ありがとう」と言って言霊(ことだま)でその“イヤな流れ”をそれっきりで断ち切った方がいい。その方が幸せになるためにはずっと簡単だ。

 そして、それ以降は、なるべくイヤなことを思わないようにする。
 じゃあ、自分のクセでイヤなこと、不幸なことを思ったらどうすればいのか・・・・
 それは簡単である。宇宙の法則では、イヤなこと、不幸なことをふと思っても、それに“気づく”とキャンセルされるので、すぐに「あ、今の間違い、間違い」「なかったことにしてください」「キャンセル、キャンセル」と思えばいのである。

 あとは良いことを考える、自分に心地良いことを考えていく、ただひたすらに。

 すると、良いこと、幸せなことの”種”が次々とまかれているので、しばらくすると良いこと、幸せなことが目の前に次々と起こるようになる。
 この時も、「なんで」「どうして」と思わないで、素直な気持ちで感謝する。するとずっと続きます。

 その先には「悟り」があるらしい。「いい」も「悪い」も超えて心をからっぽに澄み切った状態にして、目の前に現れること、起こることを「ありがとう」と喜んでいると自分ではびっくりするような幸福と感謝に満ちたことが次々と起こるという。

 ここまでたどり着きたいものですね~

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2008年7月19日土曜日

命を延ばすお経「延命十句観音経」

 「延命十句観音経」と出会った。

 秩父の34観音様巡礼の途中から不思議な“現れ”が始まったが、これもまたそのひとつの“現れ”なのだろうと強く感じる。

 ともに歩いた人たちにも同じように、これまで経験したことがない“現れ”が起こっているようだ。

 観音様の導きなのであるとそれぞれが信じている。ありがたいことである。

 この「延命十句観音経」は命を延ばすといわれている。

 医者が見放したような病気の方のために家族の方が何千回、何万回と唱えられてその病気が消滅してしまったという話が実際に数多くあるそうだ。

 三千回唱えたあたりで消滅する。残り七千回をお礼と今後の健康のために唱え一万回が標準であるという方がいる。

 健康な方でも一万回唱えると不思議な境地を得て物事が驚くほど無理なくスムースに流れるようになる、苦しみが消えていくとおっしゃる方もいる。

 大変短いお経である。身近に病でつらい思いをされている方がいれば、そのことと自分が向かい合えるきっかけになれるし、治るならそれ以上のことはない。僕も治ると信じたい。お経自体、“信じる”ことのエネルギーの固まりそのものだから。

 緊急でない人も、連続してやれる数でもないので、無理なく楽しみながら自他の健康を祈願しながらやってはいかがかと思う。心落ち着くものである。


延命十句観音経
えんめいじっくかんのんきょう

観世音  南無仏  与仏有因  与仏有縁
かんぜおん なーむーぶつ よぶつーいん よぶつーえん

仏法僧縁  常楽我浄  朝念観世音
ぶっぽうそうえん じょうらくがーじょう ちょうねんかんぜーおん

暮念観世音  念々従心起  念々不離心
ぼーねんかんぜーおん ねんねんじゅうしんきー ねんねんふーりーしん



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2008年7月18日金曜日

靖国神社「御霊祭り」




 靖国神社の「御霊祭り」を最終日に訪ねた。

 東西線に乗り九段下駅で降りて地上に上がるとそこはすでに多くの人であふれている。

 第一の鳥居の下から、遠くに大村益次郎の銅像が見えるが、その下はどこまでも人、人、人・・・、そこをかきわけながら前に進む。

 時折、立ち止まり、見上げる薄暮のうっすら茜色に染まる空は美しい。

 普段は人混みは大の苦手でなるべく近寄らないようにしているが、祭りのにぎやかさはまた別。
 平日、静かに澄んだ気が満ちた靖国さんの境内が、あふれる祭りの熱気で別の場所のようだが、いくら人が押し寄せようとどこかに節度を感じるのはこの場の持つ清明さがゆえか。

 第二鳥居をくぐり、神門まで来るとグッと人数も落ち着いてくる。

 本殿には列ができていて、先頭にたどり着くと、職場の同僚2人と横に一緒に並び、英霊に頭をたれる。

 この地をすぐには去りがたく、にぎやかな境内に戻り、夜店に席を確保して、献杯かと思ったが、「いや、乾杯だろう」ということで杯をあげる。

 普段より量は飲んだつもりはないが、まわりの早い酒に気分を良くしながら御霊祭りの夜はふけていく。



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2008年7月17日木曜日

上野の西郷さんの周辺清掃に初参加


 日曜日の朝、上野公園に向かう。

 西郷さんの銅像周辺を清掃するためだ。

 JR神田駅の近くに「西郷隆盛に学ぶ『敬天愛人フォーラム21』」というグループがある。
 わかりやすく言えば“西郷隆盛ファンクラブ”のようなもので、僕は知人の紹介で今月はじめに、代表世話役の内(うち)弘志さんを紹介された。


 知人に1年ほど前に、携帯電話のメールアドレスを訊かれ、やりとりしたところ、次に会った時、「西郷さんが好きなんですか?」と訊ねられた。

 「ええ、そうです。どうしてご存知なんですか」と僕が言うと、

 「メールアドレスです」と笑って答えられた。
 
 10年以上前から僕の携帯のメールアドレスは

 「keiten-aijin(敬天愛人)」である。

 「天を敬い、人を愛する」

 西郷さんがもっとも好んだ言葉のひとつで、本人が揮毫した書も有名である。

 でも、10数年このアドレスを使ってるが、“西郷ファン”であることを見抜いたのはこの知人が初めてであった。

 何を思ったのか、「aijin(愛人)!?」と言って、僕の顔を見ながらニヤニヤした人は数人いたけど。


 内さんから、「敬天愛人フォーラム21」では3年ほど前から上野の西郷さんの銅像周辺の清掃を行っていることを聞いた。
 老若男女を問わず、鹿児島出身でない方々も西郷さんを敬愛するという一念を持って毎月1度、集まってボランティアで掃除をしていると聞き、薩摩(鹿児島)出身の者として故郷の大先輩を敬愛する者として黙って見過ごすわけにはいかない。

 ぜひ参加させてくださいとお願いし、13日、日曜日の集合時間午前9時の30分前には銅像前に到着していた。

 一番乗りで銅像をながめながら待っていると、内さんが最初に到着。その後、参加者の皆さんがふらりといらっしゃり、今回は計7人で清掃開始となる。

 まずは、西郷さんの銅像の前に横一列になり、これより清掃を始めさせていただきますとお断りのご挨拶をし、一礼する。

 4人は西郷さん銅像の周辺をタオルで拭き、3人は上野駅側の大階段を帚ではわく。

 上野公園には清掃業者の人が関わっているのでいつも園内はキレイになっている。
 それでも水を絞ったタオルでごしごし拭くともっとキレイになり、気持ちいい。
 拭き掃除を終えたので、階段の掃除の手伝いにも出かける。

 その間にもうひとつやらなくてはいけないのがカメラ撮影。
 フォーラムの皆さんは、西郷さんを敬愛しているだけあって、いずれの方々も素朴で心温かな方ばかり。3年に及び掃除も純然たる奉仕でやっており、そのためかPR意識の希薄。写真のような活動記録がほとんどないのだ。
 ということで、本日は即席の“記録班“にも変身した。


 第一印象が温厚で、おつきあいしても変わらずそうであることがわかった代表世話人の内さんだが、こと西郷さんの話になると俄然、熱を帯びてくる。表情まで変わるくらい西郷さんへの思いは高まる。
 最初に会った時に、だんだん熱を帯び、気が高まってくる内さんを見ながら、僕は背筋がゾクゾクと寒くなった。
 西郷さんのことで内さんが熱く語れば語るほど、周辺に霊が集まってきているのがわかったからだ。
 
 西郷先生を尊敬する者同士として、同郷の者同士としてすぐにうち解けたこともあり、僕は感じたままを内さんに言った。

 内さん「霊ですか、はははは」と笑っただけだった。
 僕もイヤな気のする霊体験ではなかったので、一緒に笑った。

 そんな内さんだが、この日撮った写真の多くに、白いモヤのような霊の姿が映っている。
 やはり思った通りである。
 澄み切った夏空の下で、西郷さんを慕う人々の姿を見ながら、やはり向こうの世界で西郷さんを愛する霊たちもきっと喜んでいてくれるに違いないと僕は確信した。

 始まりと同様に、西郷さんにご挨拶と一礼をして清掃は無事終了。

 毎月、第2日曜日の9時から上野公園西郷さん銅像前に集まり1時間~1時間半ほど清掃している。
 
 多くの方々にお時間をつくって一度ご参加してほしいと願う。

 「西郷隆盛に学ぶ『敬天愛人フォーラム21』」のホームページはこちらです。

  http://www.keiten-aijin.com/

 また、今月25日には朝崎郁恵特別講演会も開かれるので、こちらもどうぞ。

 <朝崎郁恵プロフィール>
 1935年奄美大島生まれ。奄美諸島で古くから歌い継がれてきた島唄の第一人者。島唄の研究に情熱を傾けた父辰恕の影響を受け、天性の素質を磨いた朝崎はすでに10代で天才唄者として活躍していた。現在、東京を中心に活躍中。後進の育成を図るとともに、日本各地の芸能や各国の民族音楽とも交流し、新しい島唄の創作に力を注いでいる。

 1959年 映画「エラブの海」のバックミュージックとして島唄を担当
 1982年 奄美島唄朝崎曾を主催
 1984年 国立劇場にて第1回独演会「朝崎郁恵 奄美を唄う」
 1989年 NHKテレビ「この人'89」に出演
 1990年 NYカーネギーホール及びLAにて「奄美大島民謡の夕べ」を開催

 日時:平成20年7月25日(金)
 時間:19:00~21:00
 場所:西郷隆盛会館(東京・神田駅すぐ)
 人員:先客40名
 会費:3千円 食事付き、奄美の黒糖酒(30度)呑み放題 
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2008年7月16日水曜日

「馬鹿」の始まりは「愚痴」

 

 不遇の時は「愚痴」が口を突いて出やすいもの。でも、よした方がいい。

 「愚痴」は梵語(ぼんご)で「モーハ」といい、

 それがなまって「馬鹿」になったといわれる。

 「馬鹿」の元は「愚痴」だったのである。

 「愚痴」を言えば言うほど頭の巡りは良くない方向に向かうということかもしれない。


 では、不遇の時はどう過ごせばいいのだろう。

 それぞれにいろんな過ごし方の知恵があると思うが、
 歌人・石川啄木は不遇の時の過ごし方をこう歌った。


 「友がみな われより偉く見ゆる日は

     花を買いきて 妻とたのしむ」


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