2008年6月27日金曜日

南天と竹酢液、そして「ちょうどいい」

 南天の鉢植えを探していたが半年間ほど見つからなかった。
 南天は「難転(難を転じる)」と通じるため古くからめでたい木とされている。
 今もお祝い事に出てくる赤飯にはその南天の葉が敷かれている。腐敗防止の効能があるためらしい。

 「探していた」といっても縁があればきっと出会えのではないかと信じて、自分が直接出会う中でのみ探し続けていたのだから、そう易々とは見つからない。
 この出会いに「ネットでポン!」はふさわしくない。

 そうした思いがとうとう叶ったのか、縁の花が突然花開いたのか、職場近くのお寺の縁日で見つけ、南天の鉢植えが手元に舞い込んできた。

 それから3ケ月ほどが経ち、どれだけ我が家の難を転じてくれたかは定かではないが、はっきり気づかされたことがあった。
 それは、あれほど気をかけて探していた頃にはまったく巡り会うことのなかった南天が、普段歩いている道々にいくつも植生していたということである。
 道すがら何十回も、何百回もその横を歩いていたはずなのに、まったく目にとまることなく僕は生活していたということになる。
 風に揺れる南天の葉を見ながら、そのことに少しショックを受けた。


 竹酢液(ちくさくえき)を使い始めて2ヶ月ほどになる。
 飲む前に聞いていた通り、免疫力が上がっているようで身体の調子が確かにいい。
 僕にとっての一番の効用は何といっても“早起きになったこと”である。
 今朝も5時前に自然に目覚め、近所の公園で昇ったばかりの朝日に向かいながら「長息(おきなが)の呼吸」をしてきた。数日前からは守護霊にも一日の始まりのご挨拶する習慣も加わった。

 うれしいことも増えた。周囲の人々に喜んでもらえたことである。
 竹酢液250㍉リットルの原液は10リットルの水に2、3滴ぐらいまで薄めて使うため、全然減らない。 話をすると興味を持ってくれる人が多いので、欲しい人には小分けしてプレゼントすることにした。そうこうしているうちに今では僕の周りでは22歳から70歳まで総勢20人ほどが竹酢液を飲んでいる。
 先週も2人の女性からリクエストがあり小分けにして渡したばかりだ。
 この女性とは職場のおばさま方である。
 職場のおばさま方にはずいぶん前に竹酢液の話はしていたのだが、その際には特に目立った関心は示されなかった。
 無理したあげるものでもないのでそのまま何もなく今に至っていたのだが、急に「絶対、飲みたい」と言い出した。どうしたのだろうと思い、理由を訊ねると、なんてことはない「韓国ドラマ」の影響だった。
 李王朝時代を舞台にしたドラマで国王付きの医者が非常に良い漢方薬のとして竹で出来た水、すなわち「竹酢液」を王様に飲ませて病気を治すシーンがあったらしい。
 ここからは勝手な推測だが、お煎餅をかじりながらドラマを見ていると、そのシーンが映し出された。何気なく見ていたが、頭の片隅で「あれっ、竹の水って話、誰かがどこかでしてたよなぁ~、確か・・・、あ、そうだ」・・・といったところだと思う。
 おばさま方にとって、僕の言葉は韓国ドラマの太刀持ち、露払いでしかなかったわけである・・・かなしすぎる。
 とはいうものの、竹酢液をお渡しした翌日からは会社の水はオバサマ方のおかげですべて竹酢液入りの水に切り替わっていた。うれしい限りである。

 先々週、友人と横浜で飲んでいると
 「最近、毎日が楽しくて仕方ない」と友人が言う。
 以前に、「お釈迦さまによると、自分のまわりの環境も人もすべてが自分に『ちょうどいい』ことになっているらしいよ」と話していて、「全部がちょうどいい」と思えるようになったら世界ががらりと変わったらしい。
 身の回りの環境の方は何ひとつ変わっていないのに、自分の心が変わるとある日突然、人はとっても幸せになれるのだ。
 相手を変えようとすると時間がかかる。なら自分が変わった方がずっと簡単だというのも「あり」かもしれない。

 とにかくうれしい話でうまい酒を飲んだ。


 人の思考が変化すると、それまで見えなかった世界が見えるようになったり、未来から訪れる人や出来事が「うれしい」「幸せな」ことばかりになってきたりする。
 だからこそ、普段から「良き思考」と「良き言葉」を持つよう心掛けたいものである。

 ベランダを覗くと、梅雨の晴れ間に陽を浴びた小さな白い花を咲かせていた。
 
 「南天の実になる花と思はれず」(正岡子規)

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2008年6月26日木曜日

「中川昌蔵の世界」③ 憑依について

 この世には霊がいっぱいいる(ようである)。

 「日本人の中には、死んだら終わりで、神や霊の存在を信じないという人が半数を超えています。欧米ではキリスト教が正しく教えていますので、信じないほうが少数派ですが。
 アメリカでは60%くらいの人は、死後の世界があり、魂はそこへ行くのだということを、(信じなくても)情報として持っていますね」(中川さん)

 この数字の通りだとすれば、日本は世界の中でも、霊界に行けずに浮遊する霊がうじゃうじゃいる有数の国になっているのかもしれない。

 ただし、中川さんによると、
 「(霊は)そこにいるだけ。それを感じる人がいるだけで、向こうから働きかけてくることはできない」

 “うじゃうじゃ“霊がいようが、生きている人々はさほど心配する必要はないというわけだ。


 ただ、「憑依(ひょうい)はある」と中川さんも言っている。
 「『死んだら終わりだ』と思っていた人が死んでどうしたらよいのかわからなくて困っているとき、偶然同じ波動の親切そうな人を見つけて『この人に付いていけばなんとかなりそうだ』と、憑いてしまうというものです。
 ですからまったく因果関係はありません。
 ちょうど、迷い犬にエサをやったら家まで付いてきて離れないというようなものです。これが8割くらい占めています。2割くらいは地縛(じばく)霊ですね」(同)

 ダライ・ラマの主治医によると、病気には三種類あって、内臓が傷んでいるもの(いわゆる病気)が3分の1、細菌が入り込んだものが3分の1、霊が病気を起こしているものが3分の1だそうで、中川さんも「それは正しいと思います」と強調している。

 実際に、鬱(うつ)病になる人の中でも、憑依によってなってしまっている人も多いようで、この場合の特徴は、心身不調が原因でなる鬱病の回復がゆるやかであるのに対し、ある日突然、スッと治ってしまうことである。
 僕もこれに似た経験をしたことがあるが、現代医学では「憑依」の治療や治療薬の投与は行っていないので治らない人はず~っと治らないということが起こる可能性があるからこわい。ほとんどの人が強烈な薬浸けにさせられる。

 憑依に関しては、僕もコンディションによっては「憑かれてしまう」もしくは「憑いてしまう」こともあると思っている。
 対策法は以前ここで書いた通りで、

 普段から「疲れた」と言わないようにすること。

 その替わりに「ツイている」を口癖にする。

 そうしておけば、ほとんどの浮遊霊は憑いた人の思考を後押しする性格を持っているので、不思議なくらい「ツイている人生」が始まる。
 これを知らないで「疲れた(憑かれた)、疲れた」と言っている人は、強烈に「疲れた人生」がスタートし、次第に病気になり、暗くツラい人生になっていく。


 中川さんは憑依への対策をこうアドバイスしている。

 「自分自身に恨みの波動などがあって、それが強い場合に、共鳴共振して憑依されるわけで、明るく楽しく生きている人は憑依されませんから安心してください」

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2008年6月24日火曜日

ふたつの“ありがとう”に感謝


 今日は朝からふたつの「ありがとう」に出会えて幸せな気持ちになれた。

 ひとつ目は、このブログとリンクしていただいているnozomiさんの「ダニエルさんちのフランス便り」の6月23日付「一日中学教師」を読んで。

 フランスの子供たちにHAIKU(俳句)を教えるという“難事”が、臨場感たっぷりに生き生きと描かれていて楽しく読ませてもらった。
 読み進み、1時間の授業を終えた途端、拍手が起こり、教室を立ち去る子供たちがnozomiさんに向かって「ありがと~!ありがと~!」と日本語で口ぐちに言っているくだりは、その情景がありありと目に浮かんできて胸がジンと熱くなった。

 江本勝さんの「ありがとうの水」で立証されているように、人は水でできているのだから、たくさんの「ありがとう」をもらって、身体の中で自然に幸せな美しい結晶がたくさん結ばれていったことだろう。
 nozomiさん、お疲れ様でした。そして、本当によかったですね~

 もうひとつの「ありがとう」は
 岩手・宮城内陸地震で被害にあった岩手・宮城内陸地震の被災地にある宮城県栗原市立築館(つきだて)中学校の生徒が石灰で校庭に「ありがとう」の大きな文字を描き続けているというニュースだった(写真は読売新聞)。

 毎日新聞には記事としてこう記されている。
 「同中はけが人など被害はなかったが、市内では大きな被害が出て、自衛隊が災害派遣された。この事態に生徒会長の鈴木悠真さん(14)=3年=の周囲で「感謝の気持ちを表したい」という声が上がった。美術部員らが横断幕を作り、国道に向け張り出した後、「空で活動している人にも伝えたい」との声が出て、19日夕、グラウンドに石灰で縦約10メートル、横約15メートルの文字で「ありがとう」と書いた。

 副操縦士としてヘリに乗務していた自衛隊東北方面航空隊の坂倉孝史三等陸尉(27)が21日、飛行中に白い文字を見つけた。「見た瞬間、自分たちにかけられた言葉だと分かりました」。初の災害派遣で、連日の出動に疲れはピークだったが、「うれしかった。人の役に立っていることを実感した」

 23日に同僚ら4人で同中を訪れた坂倉陸尉は「短い一言で元気をもらいました」と感謝しきり。鈴木さんは「気付いてもらえてうれしい。復旧のために頑張っている人たちにこれからも感謝の気持ちを伝えていきたい」。クラブ活動で線が消えるが、当分書き続けるという。


 災害派遣に訪れた自衛隊の皆さん、連日の活動本当にお疲れ様でした。
 そして、ありがとうございました。
 
 また、被災に遭われた方々の一日も早い復興を心より祈ります。

 最後に、ふたつの「ありがとう」に感謝いたします。

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花咲じいさんとポチ

 
 
 小林正観さんの本を読んでいたら柳家小さんの孫の柳家花録(かろく)さんの落語が紹介されていて、これがとてもおかしかったので、梅雨の長雨の合間の小咄としておひとつどうぞ。


 「花咲じいさんとポチ」

 昔々あるところにおじいさんがいました。おじいさんの家にはポチというイヌがいました。

 おじいさんが木に登って灰を撒いたところ、枯れ木に花が咲きました。
 そうしたらポチが木の下で「ここ掘れワンワン」と鳴くので掘ってみると大判小判がザックザクと出てきました。

 別の木におじいさんが灰を撒いたらまた花が咲いて、
 ポチがまた「ここ掘れワンワン」と鳴くので、
 おじいさんは「じゃあポチポチ掘ろうか」などと言いながら掘ると、また大判小判が出てきました。

 そのように三本目、四本目と同じことをやっていると、夕暮れ時になりました。
 そろそろ家に帰る時間だけれど、おじいさんは掘るたびに金銀財宝、大判小判がザクザク出るので欲が出て、「ポチ、もう一本探せ」と命じました。

 しょうがないな。やる気のないポチでしたが、一本の木を探して「ここ掘れ」とおじいさんに教えました。 
 おじいさんがそこを掘ると、また大判小判がザックザク。おじいさんは大喜びです。

 ポチはもう疲れてしまいました。
 もう十分に金銀財宝は手に入れたし、もういいじゃない。おじいさん、もう帰ろうよ。
 そう言って、首輪を引っ張っておじいさんをせかしましたが、
 おじいさんは「もう一本やろう、もう一本だけ」と言って聞きません。

 「もう帰りましょうよ、おじいさん」

 「もう一本探せ、もう一本。ポチポチ探すんだ」

 「おじいさん、帰りましょうよ」

 「いいや、帰さん。もう一本探せ!」

 押し問答になった末に、ついにポチは切れてしまい、振り向きざまに言いました。

 
 「離さんか! じいさん」


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2008年6月23日月曜日

「中川昌蔵の世界」② 「死後の世界はない」と信じている人は結構大変かも

 人は死ぬと、地上に近い方から天に向かって幽界、霊界、神界とあって、霊界の規則では、死んだら直接霊界に行くことになっているそうだ。
 でも、霊界に直接行けない人々が数多くいるようで、この人たちが霊界の下にある幽界という地上界と重なり合った世界に、死んだ霊でありながらウロウロしているらしい。
 その死んでも霊界に行けずにいる霊には2種類あり、まず一つは、死んだら終わり、死後の世界など絶対に信じないという人の霊。
 「実際には死んでいるのですが、自分で自分を見ると肉体はあるし、自分は生きているので、死んだのか生きているのかわからないというものです。これを浮浪霊といいます。今どうなっているのか、どこへ行ったらいいのかわからず、迷っているのです」(中川)

 二つ目は交通事故や戦争などで瞬間的に死んだ人の霊。
 「あっという間の出来事だったため、自分が生きているのかどうか、よくわからないのです。交通事故で衝突したところまでは覚えているのですが、見ると車は大破していても自分は五体満足で血も流れていない。『ああ、奇跡的に助かった』と思い、死んでいることに気が付きません」(同)
 
 この突然の死後の状況はブルース・ウィリス主演の「シックス・センス」という映画の中で、シャマラン監督が描いた世界とまったく同じである。

 「死後の世界を信じていない人」は本来行くべき霊界に行けずに、幽界をさまよっているという話は、人が生きている時の想念がいかに強烈であるかを示していて興味深かった。
 死後にまで影響を及ぼすほど強烈だからこそ、現世での思いのあり方を大切にしていかなくてはならないのだろう。

 「死後の世界」をまったく信じないでいると“幽界でウロウロ”になるそうだが、これはそんなに難しく考える必要はなくて、「死んだから向こうの世界があるみたいだな~」という程度の認識でいいらしい。欧米ではキリスト教など宗教がこの役割を担ってくれているとのこと。

 ビジネスでの成功と「死後の世界を信じる、信じない」という死生観にも相互関係があると中川さんは話している。
 「死後の世界を信じない人には、社会的地位の高い人もいるのですか」という問いに対して、中川さんは、
 「いいえ。ほとんどいません。死後の世界を知らないで成功するという人は、まずいませんね。死んだら終わり、死後の世界などないという人は、自分の力だけで行けると思っていますから、たとえ一時的に成功したとしても長続きはしないのです。
 ですから、成功している人はほとんど、死後の世界について、ある程度情報を持っていると思います」
 と答えている。

 見えない力の「御陰」をいただけるよう意識を広げていくことが、ビジネス成功の根本にも深く関わってくるということは成功者と言われる人の手記や講演等に接して感じていたことなので、妙に納得できた。

 このことは「守護霊との対話」には記されていないが、死後の世界にはおどろおどろしい印象がつきまとうが実はこの世と死後の世界は”合わせ鏡”のような関係になっているといわれる。
 双方が影響を受け合っており、厳密には死後の世界で起こったことがこの世で起こるという仕組みになっている。
 中川さんが言う「成功している人はほとんど、死後の世界について、ある程度情報を持っていると思う」という話はこの点ともぴったりと合致していて興味が尽きない。


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2008年6月22日日曜日

「中川昌蔵の世界」① 守護霊を通してのみ神仏とコミュニケーションはとれる

 臨死体験を経て霊界とつながる能力に目覚めたことが契機になって2部上場までさせた自社の「中川無線電機」から身を引き、その後の人生を講演活動を中心に「人はなんのために生きるのか」「人の幸せとは何か」「霊界とはいかなるところなのか」を伝え続けることに捧げて2002年に没した中川昌蔵氏に以前から興味を持っていた。

 インタビュアーを小林正観さんが務めた「守護霊との対話 ―中川昌蔵の世界―」という著書があることを知り、通販で注文(書店売りはしていない)し、読んでみたところ、大きな新たな発見がいくつもあった。

 その中でも、特に興味深かった点をいくつか紹介する。

 まずは、タイトルにもある「守護霊」について。
 人間は神社やお寺に足を運び、神仏にお願い事をするが、実際には神仏とは直接のコミュニケーションはとれないのだそうだ。

 では、誰が神仏とコミュニケーションとれるのか?

 それは「守護霊」を通してのみ可能になるのだそうだ。

 中川さんは、「私たちの祈りは守護霊を仲介してのみ神仏に届くようです。守護霊にお祈りする、お願いするということを身につけるといいでしょう」とアドバイスしている。

 神社やお寺に行って多くの人はお願い事をするが、
 「神は、そこに来た時点でその人が何を思い、願いに来たのか、すべてをお見通しであるのだから、わざわざお願いを口にする必要はない。感謝の言葉だけでよい」と僕も教わってきたが、これも、神仏と唯一コミュニケーションできる守護霊が自分に変わって説明、お願いしてくれているからと考えるとすっきりと合点がいく。


 守護霊はすべての人についていてくれて、その人の力になるよう日夜奔走してくれているらしい。
 大変、ありがたいことだと僕は思う。

 では、その守護霊とどう具体的にかかわっていくことが良いのだろうと考えながら、読み進んでいたわけだが、終章を前に、中川さんはわかりやすく、誰もができる「守護霊とのつきあい方」をアドバイスしてくれていた。

 「守護霊がいて、お世話になっていることを確信し、疑わないことです。そして、『守護霊さん、ありがとう』とか、朝『おはようございます』と毎日一回言えばよいのです。

 つまり守護霊の存在を認めるということです。あとは「ああしてほしい」「こうしてほしい」など言わなくても、守護霊はあなたの心を読み取ってやってくれますから、任せておけばよいのです。

 3~5ヶ月では無理ですが、それを10年も続ければ、夫婦のように意思が伝わるようになり、あなたが何かを思ったときに守護霊がすぐに見て「これはやった方がいい」とか「やめた方がいい」と教えてくれます。あとは守護霊に任せておけばよいのです。

 簡単明瞭で、技術も何もいりません」


 「見えない世界と自分とを結ぶ唯一の存在である『守護霊』との上手なつきあいから自分の人生の幸せの実現は始まる」ということを中川さんはわかりやすく教えてくれたと同時に、その「極意」をさらりと伝えてくれていることに僕は深く感謝している。

 「さあ、今日から守護霊さんとゆっくりと会話を始めることにしよう!」

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2008年6月20日金曜日

毎日が「良い天気」(天気が「悪い日」はないんです)

 そう言うようにしてから約2ヶ月がたつ。
 「そう言わないようにしてから」と言ったほうが正しいのかもしれない。

 「天気がいい」
 と言えば、普通、“晴れた日”のことを指すものだ。

 今のような梅雨の時期には雨の日が多いので、
 “今日も天気が悪いな”とうらめしそうに天を仰ぐ。

 でも、天気に“晴れ”、“曇り”、“雨”などはあっても、
 「良い」、「悪い」はないということに気づかされた。

 だから、
 「今日は天気が悪いですね」
 「今日は天気が良くないですね」
 「今日はあいにくの天気ですね」

 といった言葉は口にしないことにした。

 ということで、土砂降りの日でも「良い天気」となるわけだが、さすがにバシャバシャ雨の降る日に人前で「良い天気ですね」というとオツムを疑われるので、
 「土砂ぶりですね」
 ということにしている。

 そうは言うものの、今でも気を抜いていると
 雨空を見上げながら「明日は出かけるんだけど、天気は良いのかな~」とつぶやいていたりするのだから、まだまだ未熟だ。

 天はきっと「これって悪い天気なんですかね」と僕に訊ねたくてしかたないだろうと思う。

 天気は”天国言葉”を口にし、”地獄言葉”をグッと飲み込む習慣を身につけるためにとても良い相手なのかもしれない。

 誰にとっても、365日、一生の間、毎日が“良い天気”なのだ。

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2008年6月19日木曜日

聖書は「この世の仕組み」を教えてくれる

 久しぶりに聖書について。
 前回同様、聖書の中に記された文章から、この「ことのは(言葉)ブログ」なりに考えさせられる言葉を(とってもたくさんあるので、機会を見て少しずつ)ご紹介する。


 「あなたは、自分の言葉によって正しいとされ、また自分の言葉によって罪とされる」(マタイ 12:37 )

 
このブログの主旨を簡潔に表現した文章である。
 人の人生は自分が口にする言葉でかなりの部分が決められていく。
 何気なく使っている言葉によって、「良いこと」も「悪いこと」も起こっている。
 言葉によって「自分の人生が作り出されている」ということに気づくと、人生というものがとってもわかりやすくなり、未来が楽しく、明るくなる。
 そういう意味で「自己責任」なのだと思う。


 イエスは彼らに言われた、
 「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。
 しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、
 あなたがたの罪がある」 (ヨハネ福  9:41)
 

 これも「思考」によって自分の人生が規定されていくということを教えてくれている。
 悲観的に思い、考える人にはその通りの「悲観すべき現実」が”しばらくすると”目の前に現れる。
 逆に楽観的に前向き思い、考える人には、その通りの現実が”しばらくすると”現れる。
 難しいポイントは”しばらくすると”にある。
 人はイヤなことがあると、その原因を身近に探るが、たいていはここ数日の自分の素行を振り返る。
 しかし、思考や言葉が引き寄せて現実化するまでの時間はまちまちで一週間の時もあれば、1ヶ月の時もあるし、3ヶ月の時も、1年や2年、それ以上過去の時もある。
 でも、悩む必要はなく、対処法は簡単。
 普段から明るく、楽しく、前向きな思考と言葉を使っていればいいのである。
 すると最初の「良いこと」がたどりつくと、ずっと「良いこと」ばかり続くことになる。

 もうひとつはテレビなど情報をどう調整するかが、いかに大切であるかをこの聖書の言葉は伝えていると思う。
 最近、悲惨な事件や事故が多いが、人はそうしたものをあえて見たがり、知りたがる。これからますますこうしたニュースは増えるだろう。
 こうした情報は自分の心にジワジワと影響を与え、本当は自分には関係ないのに、意識を向けることで、自分自身に悲惨な物事をゆっくり、ゆっくりと引き寄せが始まることになる。
 情報が入ってくる機会を調整して、なるべくそうしたネガティブな情報にふれないようにすることをお薦めする。


「死も生も、舌の力に支配される」(旧約聖書 箴言(しんげん)18:21)

 これは最初の新約聖書の言葉と同じく、人の人生は言葉の力で多くを決められているということを伝えてくれている。
 同じことを言うにしても、口にする言葉で自分が「幸せ」になるか「不幸せ」になるか決まると言われれば「よく考えるようにしよう」と思うはずだ。
 この「仕組み」を知っている人は、自分が発する言葉にはものすごく慎重に気を使うようになる。
 明るく、楽しく、すがすがしい言葉を使うようになると、間もなくすると目の前の出来事や人間関係、新たな出会いなどが変わってくる。
 はっきりとわかるように”現れ”が変化するのでぜひ楽しみながらやってもらいたいと思う。

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2008年6月18日水曜日

「今昔物語」の中の観音様の話

 日曜日から埼玉・秩父の観音様巡りを始めた。
 仕事に追われているせいもあって準備万全とはいえない中での初日となったわけだが、翌月曜日に古本屋でパッと目に入ったのが、瀬戸内寂聴さんの「愛と救いの観音経」だった。

 観音様は準備不足をやはりお見通しだったらしい。さすがである。

 巡礼の作法には「御本尊を念じ、合掌して読経」とある。
 読経は「般若心経」「観音経」「十句観音経」「本尊名号」「回向文」などとされている。

 僕は「般若心経」はそらんじられるので、初日はそうしていたのだが、寂聴さんの本と出会わせていただいたことで、「『観音経』のこと、観音様のことをもう少し知っておきなさいというメッセージが届いたな」と思った。

 「観音経」は御経というより、観音様のことが紹介されている“物語”である。
 寂聴さんは本書の中で「観音経」について
 「『観音経』の中では、およそ私たち人間が考え得る幸福のすべては、観音さまを信じさえすれば与えられるということになっています。また苦しみという苦しみ、不幸のことごとくは、観音さまを信仰しさえすれば救ってくれると説かれています。何という頼もしい観音の威神力でしょう」
と説明している。

 また、
 「私たち凡夫は何といっても、現実に信仰の御利益をこの世で与えてくれることを望んでいます。それが卑しい、つまらない願いで、本当の信仰はそんなものではないと、理屈でわかっていても、やっぱり、苦しい時の神頼みで、その願いがこの世でかなえられることを心の中では切望しています。それをかなえてくれるのだからこんな嬉しいことはないわけです」
 観音様には現世利益を求めてお願い事をしても許されるのだということを僕は初めて知った。


 ここで観音様にまつわる話が数多く収められている「今昔物語」の中から、寂聴さんが取り上げた物語をひとつご紹介する。

 
 今は昔、丹後の国に成合(なりあい)という山寺があった(今、京都府宮津市府中)。
 ここに貧しい僧が修行のためにこもっていた。
 寺は高い山にある上に、この年は雪が深く、寺はすっぽりと大雪に覆われ、人の往来がまったくできなくなってしまった。
 孤立した僧は食料も尽き果て断食して数日が過ぎ、あとは餓死を待つばかりとなった。
 僧はひとり凍える寒さの中、気力も体力も尽き果て、しのびよる死を感じながら、観音様に助けてくださいと必死に祈った。
 「観音様、観音様、たった一度、観音様の御名を唱えるだけで、ありとあらゆる願いをかなえて下さるとかねがね教えられてきました。私は年来、観音様を心から信じ奉ってきましたのに、仏前で餓死するとはあまりにも情けないことです。高位高官を望むとか、重い罪の報いを許して下さいというならば難しいでしょうが、ただ今日一日の命をつなぐだけの食物を、ほんのわずかいただきたいんです。お慈悲でございます。どうかそれをお恵みください」
 と祈りながら、ふと、寺のすみの壊れた壁から外を見ると、そこには狼に殺された猪がいるのを見つけた。
 「これこそ観音様が恵んでくださったものだ」と思ったものの、自分は年来、御仏を信じ奉ってきた出家の身である。
 「いまさら飢えたとはいえ獣が食べられようか。仏法では、この世に生きとし生けるものはみな前世で父母だと教えられている。自分は餓死寸前とはいえ、どうして父母の肉をむさぼり喰うことができようか。まして生き物の肉を食べた者は、仏に見捨てられ仏縁を断たれて、死んで悪道に墜(おと)されるという。だからこそすべての獣は人を見ると逃げ去るのだ。生類の肉を喰えば、如来も菩薩も見捨てて遠く去っていかれるというではないか」
 と繰り返し反省した。

 しかし、人間の心の弱さ、愚かさには勝てず、後世の罰の苦も考えず、今の飢えの苦しみに耐えられず、ついに刀を抜いて猪の左右の腿(もも)の肉を切り取って、鍋に入れて煮て食べてしまった。
 その味はこんなにおいしいものがこの世にまたとあろうかというもので、つい今までの飢餓の苦しさもすっかり忘れ、満ち足りた気分になった。
 けれども、飢えがおさまってしまうと、やはりとんでもない重罪を犯したことが悔やまれて、泣き悲しんでいた。
 やがて雪がやみ、里の人々が僧のことを心配して山の上の寺に上がってくる足音や話し声が聞こえてきた。
 僧はあわてて、ともかく猪を煮散らした鍋を片づけて隠そうと気を焦らせるが、人々がそこまで来ていて間に合わない。鍋には食い残したものが入ったままだった。僧はたいそう恥ずかしく情けない気持ちになった。
 そこに人々はどやどや入ってきた。
 「ああ、生きていてよかった。ずいぶん長くなるから餓死しているんじゃないかと心配していました。お坊さん、この大雪をどうやって過ごされたのですか」
 と言って寺の中を見回ってみると、鍋の中に木片を入れて煮て食い散らかしてある。
 「お坊さん、いくら腹が減って飢えたからといっても、木を煮て食う人がありますか」
 と気の毒がっていると、里から来たひとりが突然、「あっ」と大きな声をあげた。
 人々がその声の方を見ると、男が観音様を指差している。なんと観音様の左右の腿(もも)が無残にも生々しく削り取られているのだ。
 これは僧が切り取って食ったのだろうと、里の人はあさましく思って、
 「お坊さん、同じ木を食うなら寺の柱でも切って食べたらどうですか。どうしてまた観音様の御身体を切り取って傷つけなさったのです」
 と詰め寄り、なじった。

 僧が驚いて観音様を見ると、人々の言う通り、左右の腿が痛々しく切り取られている。
 その時、僧は
 「さて、あの時煮て食った猪は、観音様が自分の飢えを憐れんで助けてやろうと、猪の姿になり、御身を食べさせてくれたのか」
 と気づき、ありがたさと貴さに胸潰れる思いで、人々に向かって「実は・・・」と事の次第を正直に語り始めた。
 これを聞く者たちは、皆感動して涙し、観音様のお慈悲を貴くありがたく思わない者はなかった。

 僧は仏前に坐り、観音様に向かって謹んでこうお願いした。
 「もしこのことが、観音様のお示しになったありがたい霊験(えいげん)でありますなら、どうか元のお姿にお戻り下さい」
 すると、祈る目の前で、その傷ついた左右の腿が元のように完全に成り合わされて修復されていった。
 それを見た人々は、再び深く感動してありがたさに泣かなかった者はなかったという。

 この霊験によって、この寺は「成合(なりあい)」と呼ばれるようになった。そして、この観音様は今も変わることなくおいでになるそうだ。

 観音様がどのような神様であるかをよく表した物語である。

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2008年6月17日火曜日

名前、呼ばれていますか?

 久しぶりに風水の方からでおもしろい話を聞いたのでご紹介したいと思う。

 さて、あなたは、「最近、名前を呼ばれていますか?」
 苗字ではなく、下の名前でである。
 意外に「確かに、ここんとこ呼ばれていないな~」という人が多いのではないだろうか。
 実家にいれば親から名前を呼ばれる機会があると思うが、自立して一人暮らしでもしていると自宅と会社が主となるので、近くに友人でもいない限り、「○○さん」と苗字で呼ばれることばかりになる。
 結婚して子供ができれば「お母さん」や「ママ」、「お父さん」や「パパ」と夫婦間でも呼び合う場合が多い。孫でもできれば夫婦間はなおさらである。
 女性は特に、「○○ちゃんのお母さん」とか「奥さん」と呼ばれるので男性より名前で呼ばれることは少なくなりがちだ。
 とはいえ、ご主人にとって奥さんは自分の「お母さん」でも「ママ」でもない。もちろん奥さんにとってもご主人は自分の「お父さん」でも「パパ」でもない。
 お互いの関係性を正しく表現しない名称は、お互いを否定することにつながり、運気が正常に作用しなくなってしまう。
 「照れくさいと思うかもしれないが、夫婦間では、きちんと名前で呼び合うことが、お互いの運気を向上させることにつながる」のだそうだ。

 言霊(ことだま)の観点からみても、名前は自分だからこそ与えられた大切な言霊である。
 この名前の言霊を呼ばれなくなるとその人個人が持つ運気がどんどん消耗していくことにもなる。

 以上、これらの多くは「風水」での運気の話である。
 原則はどうお互い同士で呼び合おうがそれはそれぞれの自由である。

 今回のことで、改めて自分の名前が呼ばれる機会ということについて考えてみると、その相手というのは「親・親族、兄弟、友人、夫婦」であることがわかる。
 人生の中で、「自分の名前を呼んでくれる人」がいかに特別な存在であるかを考えさせられる良き機会になったように思う。

 特にすでにこの世にはいない大切な人が自分の名を呼んでくれた往事の声音が耳の奥に聞こえてくるように気がして、その時の姿と表情を思い出すと胸が激しく震えた。

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2008年6月16日月曜日

喜捨はした人が「ありがとう」

 時々、托鉢(たくはつ)をするために街角に立っているお坊さんを見かける。
 お坊さんが持つお椀の中にお金を入れて「喜捨」をすると、一般的に手を合わせるか、お経を読んでくれる。
 托鉢は、当然のことながら、お坊さんたちが食べる物に困ってお金を恵んでくださいというために立っているのではない。
 お寺の事情もさまざまだとは思うが、たいがいのお寺は贅沢はできないにしても3度のご飯ぐらいは普通に食べられる。
 彼らがやっている托鉢は、人々のためにやっているのである。
 2600年ほど前にお釈迦様は弟子たちに対して、「托鉢に行きなさい」と薦めた。
 そして、「托鉢は貧しい人のところに行きなさい」と言った。
 弟子たちは「貧しい人のところには行きなさんな」とお釈迦様が言い間違えたのだと思い、問い直した。
 しかし、お釈迦様は「違う。お金を持っている人のところにはいかなくていい。貧しい人のところに行って喜捨を求めてきなさい」と再び念を押したそうだ。
 人々の幸せをたえず願っているお釈迦さまの教えである。「喜捨」は、喜捨をするという行為がその人の人生を幸せに、豊かにするために設けられているものなのだ。
 お釈迦様は弟子たちにこう説明した。
 「お金持ちは喜捨ができる。しかし、貧しい者たちは喜捨するという大切なことから遠く離れ、苦しみの世界から抜け出せずにいる。貧しい人々を救い出すのです」
 だから、昔から「喜捨」をした人の方が、「ありがとう」と言って立ち去るのが正しいのである。
 もちろん、喜捨の多寡(多い少ない)は自分が困らない範囲中での話である。
 今は年配の方もそうしたことをご存じなく、「お礼も言わないクソ坊主」と立腹する人がいるそうだが、「喜捨」は救いへの導きのひとつの方法であり、「喜捨」をした人が「ありがとう」と言うものであることを身近な大切な人にはそっと教えてあげてほしいと思う。


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2008年6月14日土曜日

「マイトレーヤの手形」の画像 癒しパワーがかなりすごい!





 このブログでも以前紹介したゲリー・ボーネル氏は著書「5次元世界はこうなる」の中で、ロンドンにキリストの再来がすでに住んでいて、近い将来、公の場に姿を現すことになると書いていた(07年12月20日付)。

 欧米のキリスト教徒のことをご存知の方はおわかりになると思うが、キリストの再来なる人が本当に公衆の面前に登場し、その場でちょっとした奇跡でも起こしようものなら間違いなくキリスト教圏はパニックになる。信じる人、信じない人の抗争も想像つかないほど激しいものになるだろう。
 余談だが、8年前に仕事で訪問した際に大変お世話になったノルウェー人が木曜日に来日し、夕食を共にした。雑談になったので「リインカーネーション(輪廻転生)は信じてる?」と聞いたら、「信じてない」と答えた。
 「どうして」と問うと、「キリスト教では(輪廻転生を)信じてないから」と言うので、信仰の教義はさまざまな面で絶対なんだなと妙に感心した。

 このキリスト(キリスト的なこと!?)に関わることになるのだが、知人から先日、「おもしろいモノを手に入れたから送るから」と連絡があり、数日後、封筒に入った郵便物が届いた。
 開けてみると、中には「手形」が入っていた。
 手形といってもお金の替わりの証書の方ではなく本物の「人の手の形」である。

 そこには、「マイトレーヤの手形」と書かれていた。

 サンスクリット語の「マイトレーヤ」とは弥勒菩薩(みろくぼさつ)のことである。
 仏教の世界では、弥勒菩薩はお釈迦様の次に悟りを開き、末世には人々を救済するためにこの世に現れるという言い伝えを持つ菩薩だ。
 一番有名なのは首を傾げた姿が優美な京都広隆寺の弥勒菩薩像である。

 さて、本題の「マイトレーヤの手形」であるが、覚醒(悟りを開いた)した人物の手形で、スペイン・マドリードの鏡に突然出現したものであるらしい。
手形と一緒に、説明文も入っていたので、そのままここに記載する。
 
 「英国人著作家ベンジャミン・クレーム氏によれば、これまで、すべて、あらゆる宗教がそれぞれの名前で待望している方、世界大使マイトレーヤの間近な出現の微であるという。
 この写真は、最も最近の途方もない奇跡を示している。マイトレーヤご自身の手形がスペイン・バルセロナのある家の浴室の鏡に奇跡的に現れた。単なる手の痕ではなく、立体的なイメージで、細部まで映し出されている。
 最初にシェア・インターナショナル誌(2001年10月号)に掲載されたが、この“手”は、マイトレーヤの癒しのエネルギーと助けを喚起するための手段である。
 自分の手をこの手の上に置くかただ見つめることによって、マイトレーヤの癒すと助けを(カルマの許す範囲で)喚起することができるのである。マイトレーヤが完全に姿を現され、私たちがその顔を見るまでの間、彼はこのような形で私たちのすぐそばにいてくださるのである。
 1977年7月以来、マイトレーヤはロンドンに居所を置き、ご自分の出現に備えてこられた。彼は現代の問題に関心を持つ一人の現代人としてやって来られた。宗教の指導者としてではなく、もっとも広義の教育者として、自由と正義と平和の創造を鼓舞するためにやって来られた。その道を準備するために、140信のメッセージをベンジャミン・クレーム氏を通して与えられたが、そのメッセージを要約すると、「分かち合って世界を救いなさい」ということである。
 間もなく私たちは世界の主要テレビネットワークで彼の顔を見、そして平和への唯一の道として分かち合いと正義への呼びかけを聞くであろう」
                                                   <以上、抜粋>

 この説明文を読んで、ボーネル氏が著書の中で書いていたこととまったく同一人物のことを指しているのだとすぐにわかった。
 さまざまな微(奇跡)が世界各地で起こっているようだが、
 「自分の手をこの手の上に置くかただ見つめることによって、マイトレーヤの癒すと助けを(カルマの許す範囲で)喚起することができるのである」
 という点にひかれた。

 早速、僕も手形の上に手をかざしてみたが、かなり驚いた。
 この手形が、マイトレーヤのものなのかキリストの再来と言われる人物のものなのか、今のところ知り得ないことだが、この手形の写真から確実に強い「気」が出ていたからである。

 スキャナして画像データにしても同じく変わらず強い気を発してるので、ここでご紹介することにした。
 説明文の通り、この画像に手を置き、見ることでひとりでもなんらかの「癒し」と「助け」につながるのであれば、これほど嬉しいことはない。
 この画像データが別途、必要な方がいらっしゃれば、前回の「竹の中の女の子」同様、メールで送ります。ブログ上記のメールアドレスまでご一報ください。

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2008年6月13日金曜日

予言者・エドガー・ケイシーの治療法「花粉症」対策にはこれ!

 オリーブオイルの効果はかなり良いようで、腸の通じが快調になったとの喜びの声をいくつもいただいた。
 年に1、2度ぐらいしか便秘にならない僕の場合は効き過ぎる感じなので2、3晩に1度飲む程度でいいかもしれないと思っている。

 現在、実際に試しているケイシー療法をもうひとつご紹介する。
 「花粉症」対策である。
 僕は秋はブタ草、春はスギの花粉症に7,8年前から悩まされてている。
 昨年から「もう悩まない」と決めたのでずいぶん楽になったが、それでも鼻炎がひどい期間は味覚も鈍くなり、食べる喜びが半減することはさびしいことである。

 ケイシーの「花粉症」対策へのアドバイスは、
 「モロヘイヤを食べること」。
 モロヘイヤの葉を10枚以上、毎日食べることで症状は大きく改善できると述べている。

 季節的にもモロヘイヤが手軽に入手できる時期なので、刻んで粘りの出たモロヘイヤを冷や奴の上にのせて食べているが大変おいしい!
 これで秋の花粉症が少しでも改善できたらうれしい限りである。

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2008年6月12日木曜日

預言者・エドガー・ケイシーが薦めるユニークなダイエット方法

 昨日に続き、預言者・エドガー・ケイシーの健康自然療法。
 今回のテーマは「ダイエット」!
 60、70年前から「ダイエット」の相談があったんだーと変なところに感心しながら読み進んでみると、方法はもっとユニークで思わず笑ってしまう。

 そのダイエット方法は、
 「食前と就寝前に100%のブドウジュースを飲む」という至って簡単な方法である。
 120ccのコップに4分の3のブドウジュースを入れ、残り4分の1には水を加えて、3度の食事と就寝の30分前に5~10分ゆっくりと時間をかけて飲むだけ。
 ブドウは赤ブドウ酒用のコンコード種がお薦めらしいが、見つからなければ100%ジュースでいいらしい。

 ついでに「やせる体操」をやると効果は倍増!
 直立してゆっくりとかかとをあげ、同時に空気を吸って、両手を頭上にできるだけ高く上げていく。
 つま先立ちのまま、上体を限度いっぱいに前に倒す。
 しばらくは、つま先立ちで、両手の指先を床につけた体勢のままで我慢する。
 呼吸は毎回かかとをあげ、同時に両手をあげるときにする。
 この体操の終わり2回は、頭と首の動きを加える。
 頭を後ろに曲げて、だんだんと前方へ持っていく。そして左右に曲げてまわす。
 毎日、朝晩5分間ぐらいをメドにやること。

 これも万人に効果があるとは確約できないが、ブドウジュースは排泄を改善し、体重調整を図ってくれるそうなので、やる方みんなに効果が発揮されるよう祈りたい。

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2008年6月11日水曜日

エドガー・ケイシーの健康アドバイス「オリーブオイル」

 古神道の健康術をいくつかご紹介してきたが、今回はエドガー・ケイシーの健康術を紹介する。

 エドガー・ケイシーは、人類史上もっとも霊能力に富んだ人物のひとりである。スピリチュアルの世界に関わる人で彼の影響を受けていない人はいないといわれるほどの大きな存在である。

 ケイシーは1877年にアメリカ・ケンタッキー州に生まれる。農家の長男として生まれたケイシーは小さい頃から不思議な能力があり、周囲にいる大人には見えない“子供”と遊び、周囲には見えない”誰か”を紹介しようとするエピソードなどが数多く残されている。
 父親の事業の失敗で16歳から仕事を始めなくてはならず、さまざまな職業を転々としたのち、23歳の時には過労が原因で失声症になる。治る見込みがないため、声を使わなくてもいい写真技師になった。
 声を失って1年が経とうとしている頃、同じ町に住むアル・レインという人物がケイシーに催眠療法を試す提案をしてくる。15歳の時にケイシーが示した不思議な能力を催眠術で引き出せないかと考えたのだ。
 1901年、催眠状態に入ったケイシーに、レインが「声の出なくなった原因を述べなさい」と暗示を与えると、ケイシーは驚くべきことに、正確な医学用語を使って喉の状態を診断した。
 さらに「その治療法を述べなさい」と暗示を与えると、ケイシーは何の苦もなく治療法をスラスラと述べた。ケイシーは自分のまったく知らない医学用語を縦横無尽に駆使して診断したことに驚き、さらにその治療法によって声を回復できたことに本人も周囲も大きな衝撃を受けた。
 後にこの催眠状態であの世の知恵に結びつく方法を「リーディング」と呼ぶようになる。
 ケイシーのこの不思議な能力は次第に有名になり、多くの難病患者がケイシーの催眠診断を求めるようになって、そのアドバイスを受けて健康を回復する人が後を絶たなかったそうだ。
 健康以外にも物理や化学、電気工学、考古学、神学、心理学、政治経済など、さまざまな分野の質問がケイシーに寄せられ、それに対してことごとく有用な回答を与えた。そして67歳で亡くなるまでに1万4000件以上のリーディングを行った。

 「ケイシー療法」ではさまざまな具体的な病気に対してその治療法が明示されている。
 この中から健康維持・増進の点で「オリーブオイル」を飲む記述がよく出てくるのでこれについてご紹介する。
 方法は簡単。寝る前にオリーブオイル(食用のバージン)を大さじ一杯~3杯飲むだけ。そのまま飲んでも、お湯で流し込んでもよい。
 オリーブオイルには粘膜を活性化させる作用がある。人の唇から肛門までは、その粘膜でできており、この経路につまっている老廃物を排泄してしまう働きがあるそうだ。
 昔から地中海沿岸の子供達は、おなかが痛くなったり頭が痛くなると、お母さんやおばあちゃんからコップ半分のオリーブオイルを飲ませてもらって治していたそうだ。そして、この方法は現代にも続いている。
 消化器から排泄の悪い腸の老廃物がつまって、その反射で頭痛や関節痛、皮膚病で困っている人には寝る前のこのオリーブオイルは特に効果的であるそうだ。
 国産品と輸入品いずれでもかまわないようで、僕は大さじ1杯しか飲まないが確かに効果があるのが実感できる。身体の中の毒素やアクを外に出すデトックス効果を助長させているのであろう。誰にでも効くかどうかは確約できないが、便秘症の方などで化学薬を好まない人は試してみる価値があると思う。

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2008年6月10日火曜日

元気をくれるさまざまなこと

 朝日とともに行う息長(おきなが)の呼吸がうまくできるようになったのか、18回終えると身体の芯に力がみなぎるような爽快感を得られるようになった。
 一日の始まりを告げたばかりの朝日のエネルギーはやっぱりすごい!

 朝日をじっとみつめながら呼吸法をやっていると太陽がとても早く動いているのに気づく。
 実際には地球が秒速466㍍というとてつもない速さで回っているのだが、“相手”が動いているようにみえるからおもしろい。

 人生を大きく左右する「引き寄せの法則」もまさにそうで、良いことも悪いこともすべて自分が引き寄せている。でも、良いことであれ、悪いことであれ、出来事が起こると、向こうからやって来ているような“錯覚”に陥る。
 そうなってしまう一番の理由は、良い(悪い)思いを送ってから、出来事が自分にたどりついて「現実化」するまでに時間差があるからである。
 わかりやすく言うと、良いことばかり思うと決めて実行したとしても、最初の良い現実化が来るのが3日かもしれなし、3週間後かもしれないし、10年後かもしれない。たいがいはその間にあきらめたり、悪い思いを持ってしまう。
 ただし、「良いことばかり思う」ことを続けられたら、最初の現実化が届いて以降は、ずっと良いことの連続の日々である。

 そんなようなことを話ながら、先週はニューカレドニアの友人と有楽町で酒を酌み交わしていた。
 彼女は以前ここでも紹介した中村天風の本を薦めてくれた人でもある。
 フランスに嫁いだブログ「ダニエルさんち」の同級生がもたらしてくれたご縁でメールのやりとりを始め、このほど実家への帰国に際して時間をつくってくださって初めてお会いできた。
 ニューカレドニアで学校の先生をし、通訳などの仕事もされているだけあって抜群の文章力にこれまでも感心していたのだが、まさにその通りの聡明で心の豊かな魅力的な方だった。
 同級生からは「あなたたちは出逢うべくして出逢うのだと思います」というメールをもらっていたが、その予想の通り、旧知の友と久しぶりに会って語らっているような楽しく、そしてゆったりとくつろいだ気分で時間を過ごせた。

 いろんなおもしろく、有意義な話ができたが、
 「子供たち(生徒たち)から救われた」という話がとても印象的だった。
 教職で出会う子供たちの言葉や行為、しぐさ、存在そのものに元気をもらい、救われることがたくさんあり、その御陰で今があるのだということだった。
 成人している教え子が島には数多くいて、今でもさまざまなところで声をかけてもらえるのだそうだ。
 10年、20年経つと顔も変わりわからないのではないかと思うが、歳をとっても変わらない部分があるのでたいがいは覚えていて、逆に教え子の方もそれに驚くという。
 いくつになっても、たとえかなり太って見た目は大きく変わったとしても変わらないところ・・・、それは「目」なのだそうだ。

 そうした子供たちとの話を聞いて、「よき人生を歩まれている」と僕は思った。
 数時間はアッという間に時間が過ぎ、またの再開を約束してわかれた。
 数日後に、無事、帰国したというメールと一緒に、写真が送られてきた。
 そこには鳥がタネを運んできて屋根の上で育っているという熟れたトマトが写っていた。
 こうした豊かな自然が彼女の元気のもとであるんだなと再認識するとともに、僕もまたその写真から新鮮な果実のような元気をいただくことができた。

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2008年6月9日月曜日

日曜日から秩父三十四カ所観音霊場巡り

 
 日曜日(15日)から埼玉・秩父の観音様(三十四カ所観音霊場)巡りをすることに決めた。
 巡礼コースは全長100キロほどということなので、全5、6回になると思う。

 前々から行きたいなと思い、最近は口にするようにしていたら、地下鉄・有楽町線に乗って何気なく見た車内の中吊り広告に「秩父三十四観音 期間限定6年ぶりの総開帳」という文字が踊っているのが目に飛び込んできた。
 期間も3月18日から7月18日までとある。

 この期間をのがせばご開帳は6年後である。
 「今がその時だ、行こう」と素直に決めていた。


 我が家から埼玉県秩父駅までは片道3時間ほどかかるが、準備よくこの1ヶ月ほどで「早起き」が定着しているので問題ない。
 お寺に6枚ずつ収める「写経」も50枚ほど書いてあるので、これから時間をつくってコツコツと書いていけば大丈夫。
 友人2人の同行も決まり、心強い。

 あとは体力だが、2年前までは屋久島の縄文杉を大学登山部OBという知人と一緒に駆け上がるようにして登った「(過去の)実績」を信じるしかない。

 観音様たちにお会いできるのが今から楽しみである。

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2008年6月8日日曜日

肉食は霊気を汚す

 霊性を上げるのに、最も簡単で有効なのは食事の改善し、菜食中心にすることであると聞いた。
 その数日前には、腎臓や肝臓、膵臓の病気の改善食は「肉食を絶つ」という共通した一文が入っているのが目に止まっていたので、ここ最近のシンクロは「肉食」であると気がついた。

 僕は、肉より魚の方が好きだが、普通に肉を食べている。
 歳を重ねて若い頃よりは食べる機会が減った程度で、これまで厳しく制限することなどまったくしていない。

 だが、「肉食は霊気を汚す」らしい。
 「霊性なんて関係ない」という人もたくさんいるが、人はすべからく霊的存在である。
 無意識下での出会い(引き合い)や別れ(反発)をひとつとっても誰もが経験している。悪しき波調を受けやすい受けづらいかどうかは人生にとってもかなり重要だ。

 肉類には殺した動物の悪想念がべったりとくっついているらしい。この悪想念を体内に摂(と)り入れることになり、過度になると波調を粗(あら)くし、霊性を墜(お)とさせていくことになる。
 医学的にも動物性油は、人間の体温では融解できないので、血液を汚して血管をつまらせ、病気の原因になることはよく知られている。

 本来の食事は「自分の性から遠く離れた植物性のものであって、同類である動物性のものは好ましくない」。したがって野菜や穀物が理想的なのだ。

 「聖書」の創世記にもこんな言葉がある。
 「わたしは全地のおもてにある種を持つすべての草と、種のある実を結ぶすべての水とをあなたがたに与える。これはあなたがたの食物となるであろう。また地のすべての獣、空のすべての鳥、地に這(は)うすべてのもの、すなわち命あるものには、食物としてすべての青草を与える」

 古今東西を問わず「神書」といわれる文献の中には「肉食への戒め」に関する記述が多い。

 なるべく肉類を避ける、せめて牛や豚の類は避ける食生活を心がけようと思う。
 神経質になる必要はないが、野菜、穀物中心の食事である。
 それは、日本古来からの食事でもある。
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2008年6月7日土曜日

「国宝・薬師寺展」がものすごい人気


 東京・上野の国立博物館で「国宝・薬師寺展」が開催されている。
 平城遷都1300年を記念して行われているもので、国宝の「日光菩薩立像」「月光菩薩立像」が2体そろって寺外では初めて公開されたことが話題を呼んでいる。

 しかも今回は普段、薬師寺では両菩薩像の背にある「光背」がとりはずされたお姿で初めて披露されるということなので、「これはぜひ、拝見したい」と思い、最終期日の8日を直前にし、仕事を前日までにやりくりして時間をつくって木曜の午後、上野に向かった。

 1時半過ぎに会場の国立博物館に到着すると、入場券売場には列ができている。
 「けっこう混んでるな」と思いながら列に並ぼうとすると、前列の横に、
 「130分待ち」
 と書かれたボードを掲げた係員がいる。

 近くの係員に「130分」の事情を訊ねると、来場者が多いために入場制限をしており、入場券を買って門から入っても、建物前から入場は制限されていて、館内に入るまでに約130分は待たなくてはいけない状況にあると教えてくれた。係のお兄さんもかなりお疲れの様子で、主催者側にとっても想定外の混雑になっていることがうかがえる。

 空を見上げるとすぐにでも雨が降ってきそうな空模様。それでも並んで待って観覧したいところだが、夕方には仕事が一本入っている。
 仕事はキャンセルできず、並んで2時間待つと30分も見られない、もしくは何にも見られないことにもなりかねないので、残念だがあきらめることにした。

 国立博物館を後にし、上野公園の中を歩きながら、ディズニーランドのアトラクション並みに多くの人々を「薬師寺展」が引きつけていたことに感心するとともに、見ることはできなかったことは残念だったが「とってもいいことだな」とうれしくなった。
 日本人の“豊かさ”の一面を少し見せてもらえたような気がした。

 そして、僕は、「今回はご縁がなかったが、日光、月光の菩薩像には、いつか必ず薬師寺に直接会いこう」と心に決めた。
 
 まだ時間はゆったりとあるので、のんびり散歩気分で、我が郷土の偉大な大先輩である西郷隆盛の銅像を久しぶりに見に行く。
 修学旅行の中学生や観光客らしい人たちが銅像やその前に立って写真を撮っていてにぎやかだ。
 軍服を着た、いかめつい鹿児島市内の銅像とは対照的に上野の西郷さんは着物に兵児(へこ)帯姿で、右側には愛犬を連れていてなんとなく微笑ましい。
 明治時代、この銅像の披露式に出席した西郷夫人は「これはうちの人じゃなか(い)」と言ったそうだが、これは顔かたちについてもそうだったらしいが、西郷さんは相手にとても細やかに気を配る人で、面前でこんな服装は絶対にしないということを言いたかったための夫人の言葉といわれている。

 西郷さんが好きな言葉として有名なのが「敬天愛人」である。
 僕も西郷さんの人生を学ぶうちにこの言葉にひかれ、10年ほど前から携帯電話のアドレスにも使わせてもらっている。

 目に見えぬ絶対的な存在のことを思い、感じ、向き合いながら生きていくと自分自身が人としていかに生きていくか「自主自尊」の精神が育まれ、自分が巡り合わせいただけるすべての人々に感謝の思いを抱きながら、やさしく、愛おしさが胸に広がったことであろう。
 また、人にやさしく、愛するようになればなるほど、自分自身が豊かになり、目に見えぬ存在にますます感謝と敬意の思いを抱いていく西郷さんの生き方を勝手に思い描く。

 西郷さんの銅像からすぐ近くにある上野公園内の「東叡山寛永寺」で千手観世音菩薩を拝む。
 千手観音の真言は
 「おん ばさら だるま きりく」

 階段を下りて不忍池に向かい、「寛永寺不忍池弁天堂」で弁天様を詣る。
 弁財天の真言は
 「おん そらそばてい えい そわか」

 関わる人の健康や病気回復等の思いを抱きながらの参拝であることは神はすでにお見通し。
 僕はいつも通り、真言3回、住所、名前ののち、
 先日、赤荻先生もブログで書かれていたが、言葉にするのは、ただただ「感謝の言葉」のみである。

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2008年6月6日金曜日

「風邪を治す古神道の秘術」は効き目絶大

 長男が今朝から体調不良で、38度1分の熱を出して学校を午前中早々に早退(はやび)けしてきた。
 どうやら風邪のようなので、「古神道の風邪を治す秘術」を行ってみることにした。
 先の冬は誰一人としてインフルエンザどころか風邪ひとつひかなかったので、幸いなことに試すこともなかったので、これが初めて試す機会となった。

 「古神道の風邪を治す秘術」とは、
 少々の焼き味噌を作る。同時に煎じたてのお茶をつくり用意する。
 茶碗に入れたお茶と焼き味噌を持って戸口に行く。
 戸の敷居に焼き味噌を置いて、
「煮端(にばな)の茶をあげるから出ておいで」
と小声で唱えながら、茶碗の茶をかけて焼き味噌を敷居の外に流す。

 流しだしたら戸を閉め、振り返ることなく居間に戻る。焼き味噌とお茶の香りに誘われて、風邪はいずこへと去っていく。

 また、これとは別に、
 湯呑みにわずかな醤油を入れて、そこに熱い番茶を注いで、それを呑んで、床に入るという方法も効果的であるそうだ。

 この2つの方法をお昼前にやってみた。
 番茶を飲む頃には、長男は「身体が熱くなってきた」と言い、それからひと眠りして1時間ほど寝たあと、体温を測るとなんと36度1分に熱が下がっていた。

 その後も熱は上がら今に至っている。
 今夜までは油断はできないが、「さすが古神道の威力」であると感心した。

 誰もが効くのかは定かではないが、体験者としてひとつのよき情報となればと思いお伝えしておきたいと思った。

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2008年6月5日木曜日

松下幸之助のポジティブな言葉

 松下電器の創業者である松下幸之助のことを僕はよく知らないが、昨年、松下氏の年少の頃のおもしろい話を聞く機会があり、それから興味をひかれるようになった。

 松下少年の実家は事業に失敗して没落。このため、小学校を4年で中退して9歳で大阪に丁稚奉公(でっちぼうこう)に出される。
 その頃の話だと思うが、お使いを頼まれた松下少年は川辺で船を待っている。
 しかし、泳ぐことがまったくできない松下少年は少々緊張気味。
 船が到着し、人々が次々と乗り込む中、列の最後尾あたりにいた松下少年も船に乗る。
 すると、向こうから船めがけて走ってくる男がいる。
 船頭がもう出発の時間だから間に合わないよ、と大声で伝えるが、男はかまわず船に飛び乗ろうとする。すでに動き出した船に脚をかけようとしたものだから男は体勢を崩してしまう。何でもいいからつかもうと手を伸ばした先には松下少年の肩があった。
 松下少年は男と一緒に、川の中にまっさかさまに落ちていく。
 男はすぐに泳いで船縁(へなべり)につかまってきたが、松下少年は「僕、泳げないんです、助けて~、助けて~」とおぼれながら大声で叫んでいる。
 船客のひとりの男が川に飛び込んで松下少年を救出し、なんとか無事船に引きあげてくれた。
 半死半生で横になっている松下少年を見ながら、船客は「この少年はなんてツイてないんだ。偶然手を伸ばしたところにいるんだもんな。この子のこれからの人生も心配だよな。まったく、かわいそうに」と気の毒そうに話している。
 横になっていた松下少年も少しすると落ち着きを取り戻して起きあがり、助けてくれた人に何度も何度もお礼を言ったあと、こう言ったという。
 「かなづちで、おぼれて死にそうな僕のそばにあんなに泳ぎのうまい人がいて、命を助けてもらえた。
 僕はなんてツイている人間なんだろう!」と。

 これ以外にも有名な話だが、
 小学校もろくに出ていない松下幸之助は「商売の神様」と言われるようになってからも常々口にしていた言葉があった。
 「僕は学校を出ていない。でも、その御陰でわからないことがあると恥ずかしがらずに誰にでもすぐに聞くことができる。なんツイているんだろう」

 ビジネスの大成功者である松下幸之助はケタはずれのポジティブな思考と言葉を持つ人物でもあったのだ。

 
 今回、読んだ大久光著「松下幸之助の私は『この生き方』を大事にしてきた!」にはこうしたエピソードはまったく記されておらず、その点では期待はずれだったが、いくつかの金言に出会うことはできた。

 「『運を天に任せる』、あるいは『人事を尽くして天命を待つ』という。
 自分の判断や自分の意志によって努力することは、必要があることもまた事実だ。
 何もかも人事において解決できると思うのは、不遜なことでもあるし、神ならぬ人間にはそれだけの力はとてもない。そう思っているぎりぎりまで努力し、あとは天命にゆだねるという潔さが必要である。
 そこには安心立命もあるし、それがあることによって、また持っている力がいっそう心おきなく引き出され、大きく発揮できるのである」



 「もしあのときこうだったら、というような仮定に立って、過ぎたことを振り返ってみるようなことがよくある。
 そうすれば、今ごろはもっと違った状態になっていたかもしれないなどと、いつもまでもクヨクヨ考える。 しかし、人生に“もし”はない。
 ということは、あとになって悩んだりすることがないように、常に最善を尽くす生き方をすることが大切になる。
 そうした生き方において、事が成就しないのであれば、それもまた仕方がないだろう。そのように受け止めることが、また大切だ。そうした中から、清々(すがすが)しさのようなものが生まれるのだ」

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2008年6月4日水曜日

テレビは「怪物」

 以前読んだ本の中で斎藤一人さんが、テレビは「怪物」と述べていた。
 この「怪物」に気をつけないと冷静な判断ができなくなると警鐘を鳴らしていた。
 それはなぜなのか。

 「テレビの影響力ぐらい知っている」「自分はテレビの言いなりになんかなっていない」「何が正しいか正しくないか、ちゃんと自分で考えている」とみんなが思っている。
 でもそこが危ないのだ。
 なぜならテレビは見ている人をだまそうなんてしていない。テレビはただ、視聴者が見たいものを映しているだけだからである。
 テレビが映すものはほとんどが事実である。ただし、事実のほんの一部で、しかも視聴者が見たいと思うことだけを映している。
 だから、テレビの中に自分の見たいものを見つけた人は「やっぱりそうか」「私の思っていた通り」だと信じる。
 そしてテレビは本当のことを映すものだと信じるようになる。

 人は元々、不安なものを見たい、知りたいという心理を持っている。
 イヤなことが起こるなら、早めにそれを知っておきたいと思う心が人間にはあるからだ。
 だからテレビでは不安なことばかり放送する。そうやっておけば視聴者が見るからだ。
 実際には景気は悪くなるはずがないときでも、テレビで不況だ、不況だと言っていると、本当に不況になってしまう。みんながそれを信じてしまうので、本当にモノが売れなくなってしまうからだ。

 また、本当の不況のときにはみんが解決法を求めるようになる。
 すると、テレビはみんなが喜びそうな解決法ばかりを放送しはじめる。
 それがあまり根拠のない方法でも、視聴者がいかにも信じそうなもの、喜びそうなものならば、テレビは放送してしまうところがある。
 そこで、そんな方法を言いたがるような学者や評論家ばかりがテレビに連日のように登場することになるのだ。
 
 テレビは見ている人が不安に引きずられたり、自分の希望を満たすようなお手軽な解決法を求めたりしているうちは、テレビはそんなものをただ映しつづけるだけである。
 テレビは人々の心を映している。そして多くの人々の心がテレビによって動いてしまう。人々の心に不安があれば不安な時代に向かい、人々の安易な判断が間違っていれば間違った方法へと時代が進む。

 テレビ自体が景気を左右する、社会を左右する“怪物”のような存在にまでなってしまっている。

 だから、社会、時代を的確に読むには、テレビによって動いてしまう人々の心を見極め、しかも、自分はテレビという怪物に惑わされない目を持つことが必要と斎藤さんはアドバイスを送っている。

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2008年6月3日火曜日

太陽の光は低級霊を祓(はら)う

 5月のゴールデンウィーク前後から始まった早起きが今もなお続いている。
 変化の節目は、竹酢液だったので、その効果かもしれないし、引き出すきっかけとなったのかもしれないので、何が原因なのかは定かではない。
 朝4時半~5時半には目覚まし時計をセットしていなくても自然に目覚め、すがすがしい気分ですくっと起き上がれる。
 これで日中、眠くてしかたないということであれば早起きの意味は薄れるが、以前より思考がクリアになった気さえするほど調子がいい。
 ただし、移動中の電車の中や帰宅後の就寝はまさに気絶したかのような深い眠りが「おいで、おいで」と強烈な手招きをする。

 ということで、どうやら長年お付き合いしてきた「朝寝坊体質」から完全に“脱却”したらしい。
 家人からは「何かついているのではないか」冷やかされるが、違う人生に切り替わったような不思議な感じが自分でもしている。
 それでも、「ツイてる」可能性も確かに否めないので、朝から「ツイている!ツイてる!」とつぶやくことが多くなる。

 早起きになったことで朝ひと仕事できるようになったり、腹がすいて朝ご飯がおいしくなったりといった変化があるが、なんといっても最大の喜びは
 「日の出を見ることができる」ようになったことである。

 今の時期は5時が過ぎた頃に朝日が顔を出す。
 僕はそれに合わせて、ここのところ日課となってきた(以前ここでもご紹介している)「息長(おきなが)の呼吸法」をする(曇りや雨の日は太陽が昇っている方向に向かって行う)。

 理想的な呼吸は、身体の浄化を促すといわれる。
 少しきたない話になるが、呼吸によってげっぷやおならが出るようになると理想的な呼吸に近づいた証拠である。呼吸が誘導する形で、身体からアクや毒が体外へと排出されて、根本の健康が現われてくるそうだ。

 「ツイている話」「日の出」のことなどを言葉にしていたら、昨日、これに関する“シンクロ”情報が舞い込んできた。

 この世をただよう低級霊が憑依(ひょうい)することはよくあることで、そうなると突然体調を崩したり、精神的にバランスを損なったり、それこそ「ツカれる」ことが連続して起こったりするようになる。

 この憑依を祓(はら)うもっとも簡単な方法が「太陽を見る」ことなのだそうだ。
 太陽の光が目を通じて脳内に入ると、いたずらをする低級霊はすぐに離れていくのだという。

 太陽の光の中でも「日の出の光」が憑依を取るのにはもっとも効果的ということらしい。
 朝日を拝むことがこんな効果までもたらすなんて聞いていて嬉しくなった。
 以前、太陽は昇る時と沈む時がもっともエネルギーを発するということを聞いたことがあるのでこれにも合致する情報である。

 朝日とともに一日が始まる生活をこれからも続けていきたいと願っている。

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2008年6月2日月曜日

新たな古神道「十字の秘術」を2つ

 新たな古神道の「十字の秘術」を教わったので、早速つけ加えておきます。

 方法は前回説明した通り。
 左の掌(てのひら)に“文字”を空書して心の中で「日」「月」の2文字を念じる。

「勝負事に勝つ」
 左の掌に「勝」という字を空書し、心の中で「日」「月」を念じる。
 仕事の交渉事などには、前回お伝えした「天」とこの「勝」で決まりでしょう!

「病気を移されない」
 左の掌に「●」という字を空書し、心の中で「日」「月」を念じる。
 ●=クチヘン(左に口)に、ヨンガシラ(目を横にしたような文字)、その下に「走」の土を除いた下の字をヨンガシラにくっ付ける・・・・現代にない漢字なので説明難しい!
 この秘術は、お見舞いに行く時や、子供など身内の看病をする際、インフルエンザなどの感冒が流行っている際に効果を発揮する秘伝である。


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2008年6月1日日曜日

「私はまだ、死ぬという大切な仕事がある」

 人の記憶はあてにならないことがある。
 前にここでご紹介した「感謝婦人」のことが収録された三浦綾子さんの「忘れえぬ言葉」を読み返してみると、
 三浦さんはクリスチャンだったが、「感謝婦人」はそうではなく、熱心な「天理教徒」だったことがわかった。
 お詫びして訂正いたします。すみません。

 久しぶりに読んだ「忘れえぬ言葉」に収められたエッセイはいずれも心にしみるものばかりである。
 新装丁された文庫本が出ていると知って雨の日の休日に、地元の本屋を2件、隣の駅の本屋を2件、電車に乗りひと駅先の本屋を2件、計6件の本屋を巡ったが見つけられず、結局ネットで注文して数日後に手にすることができたことを割り引いても十分に満足のできる一冊であった。

 本屋巡りをしながら得たものもある。
 「たとえ本ひとつであっても、いかなることをしようと、『出会えない時には出会えない』」ということである。

 ある人がこう言っていた。
 「人生でつらいことがふたつある。ひとつは、『会いたい人に会えないことである』。
 そしてもうひとつは『会いたくない人に会わなければならないことである』」と。

 いずれも、その通りであると思う。
 でも、それが自分の心のあり様がもたらす結果であるとわかると気持ちはかなり楽になる。
 目の前のことを「楽しもう」と自分で思ってみるとずいぶん景色が変わってくる。

 長年にわたり本屋を巡り、それが趣味のようになった人間だと、そこそこ大きな本屋を丹念に探し、求める本と巡り会えないケースが3件続くと、そのあたりにはその日の結果はおおよそわかってくる。
 そこで落胆して「ツイてないな」と思うか、しゃかりきになるか、楽しもうと思考するかを境目として、その日の心持ちも大きく異なってくる。
 また、「楽しんで」いると、そんな時にこそ、別のすばらしい“相手(本)”がちゃんと待っていてくれたりするから、おもしろいものだ。



 今回は、ようやく巡り会うことができた「忘れえぬ言葉」の中から僕が特に忘れえぬ言葉となった作品をいくつかをご紹介したいと思う。



 50余年という三浦綾子さんの闘病人生の多くを支えてきたのがご主人の光世さんである。
 本人も決して健康とはいえない身体なのに、三浦さんのガンの自然治療のためにと1日2回、汗をかきながらマッサージをしてくれる。

 それが心苦しい三浦さんは
 「ほんとうにすまないわねえ」
 と、時々言う。
 すると、そのたびに、彼はニコッと笑って、

 「イット・イズ・マイ・プレジャー(私の喜びだ)」と答えてくれる。

 この言葉を聞き、マッサージをされながら三浦さんは涙をこぼしそうになる。




 叔母(おば)はご主人に言い出しかねて嘘をついてオペラを観に出かけた。

 その日珍しく早く帰っていたご主人は
 「ああいいよ。おれが留守番するから、ゆっくり行っておいで」と快く送り出してくれた。

 劇場に着き、オペラの券をハンドバックから出そうとすると手の切れそうな10円札が券のそばに入っていた。
 友達と出かけるとなればお金も必要になるだろうと思い、何もかも知っていて、そっと小遣いをしのばせておいてくれたのだ。
 叔母は叔父の寛大な愛に打たれて家に帰った。が叔父は
 「おもしろかったか」
 と尋ねただけだったという。
 叔母は嘘をついたことを詫び、小遣いの礼を言ったが、叔父はただ笑っていたという。

 「綾ちゃん、何も言わないことも、言葉の一つなのねえ」
 としあわせそうに述懐した言葉が、今も耳に残っていると三浦さんは綴(つづ)る。



 三浦さんのお母さんは84歳で亡くなるまで笑顔の絶えない人だった。
 息子が7人いて、その妻達も同じ数だけいた。嫁姑との間にはいろんなことがあるものだが、実の娘である三浦さんと二人っきりの時でさえ、お母さんは愚痴や悪口を一度とさえ言わなかったそうだ。
 そんなお母さんがある日、三浦さんにこう言った。
 「母さんはね、街で結婚式帰りの、あの白いビニールの風呂敷に引出物を包んだ人たちを見ると、どこの誰の結婚式かは知らないが、『どうか一生幸せであるように』、とお祈りしないではいられないんだよ」

 三浦さんは、見も知らぬ二人の結婚を、一生幸せであってほしいと願う母親が、16歳で結婚してから大変な苦労をしてきたことを知っていた。
 そんな母であったから、母はきっと、結婚というものの重さを、誰よりも身にしみて感じ取っていたにちがいない。どんな人であろうと、自分が遭ったような苦しみや悲しみに遭わせたくない。母はそう思って生きてきたのだろう。だから、どこの誰とも知らない人の結婚にも、
 「どうか一生幸せであるように」
 と祈る心となったのかもしれない。
 そう作品を結んでいる。


 三浦綾子さんは1999年10月、50余年の闘病生活の末に他界する。
 死の床で遺した言葉はこうだった。

 「私はまだ、死ぬという大切な仕事がある」


 これもまた「忘れえぬ言葉」である。


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