2008年8月31日日曜日

大敬先生の「般若心経」講義⑦弥勒の教え


 次に、弥勒(みろく)菩薩です。
 
 般若心経の「是故空中、無色無受・・・、無眼界乃至無意識界」の部分がそれで、ここを読むと弥勒様が現れて、「そうだ、その通りだよ」と拍手して励ましてくださると、空海さんは説いています。

 弥勒さんは心と世界の関わりの様相を詳しく分析研究した「唯識学」をつくった方です。
 本当にあるのは「思いの響き」だけということをおっしゃいました。ですから、音に耳をすませています。

 「種子(しゅうじ)」
 「薫習(くんじゅう)」
 という言葉があります。

 「種子」はいつも震えています。
 プラニド形といって振動で変化する紋様があります。
 江本勝さんの言葉によって変化する水の結晶もこのためです。
 種子の響きが姿を変えていきます。
 人には「本音」というものがあります。
 「私は幸せ、私は幸せ」と念じている人がなぜ不幸になるのか?
 これは、そう言うたびに私は不幸、私は不幸と思っているからです。
 今の不幸を意識しているから不幸になります。
 そうした意味で「本音」に気をつけましょう。

 「薫習」は、横にいるだけで自分にも薫りが移るということ。
 共鳴現象もそうですが、これを使うと効果を見込めます。
 たとえば、成功者の本を読んだり、講演を聞いたりすることもそうです。
 「薫習の法」ともいいます。

 私は東京好きです。東京には繁栄の気があります。
 繁栄の気にふれるために訪れたりしています。

 「随喜法」も良いですね。
 成功した人がいたら「ふん、何さ」と言うと成功を否定したことになるので、その人は成功しません。
 人の成功を喜んであげることが、その波動を受け、自分の成功になるのです。

 金光教の教祖さんは、「悪口を言う人がいたら、逃げろ」と言っていたそうです。
 悪口の波動は強烈なのですね。

 普賢さんは白像に乗り、文殊さんはライオンという乗物に乗っていましたが、弥勒さんは乗物に乗っておられません。これは、弥勒さんにはもう乗物は必要ない。ただ、天命とひとつになっていれば、おのずと想い通りになってゆくのだからと知る段階に達しておられるからです。

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2008年8月26日火曜日

大敬先生の「般若心経」講義⑥文殊菩薩の心の法



 次は「文殊(もんじゅ)菩薩」です。

 般若心経の本文では「是諸法空相(ぜしょほうくうそう)~不増不滅」までが文殊さんの出番です。

 文殊菩薩は、ライオンに乗っています。姿は子供で、身体は黒く、手には剣(つるぎ)をもっています。

 「不生不滅 不垢不浄 不増不滅」
 スクリーンの上で生き、そして滅びる。
 人は無意識に自分自身を制限しています。
 人は時間の中で物事をとらえます。そこには経歴のブロックがあったりします。

 禅の神様である仰山(きょうざん)禅師は、ある日、夢を見たとおっしゃいました。
 その夢には、お釈迦様と文殊菩薩が会合しており、その隣の3番目の席が空いていました。
 禅師は、その席にすっと座ったところ、「今日は3番目に座った人が説法をする日です」と言われました。
 仰山さんは「差別を絶しています」と言って説法を締めくくります。

 この夢物語で仰山さんは私たちに何を伝えようとしているのでしょうか。
 お釈迦様と文殊菩薩の隣の席ですから、普通なら気後れして逃げ出してします。
 自分にはふさわしくないと自ら決めてしまい、自らを制限し、限定してしまいます。

 でも、人生では、今のあなたにふさわしい「空席」は決してこないし、今のあなたにふさわしい「仕事」も絶対やってきません。

 仰山さんは答えは「席があったら坐りなさい」、「仕事がきたらやりなさい」ということです。
 グズグズ文句なしに、思い切って、サッと席に着き、サッと働き出せば、必要な能力も、必要な智慧も、次々限りなくわきあがってくるものだと言っているのです。

 金光教の教祖の湯川さんのお話で、10年間病気だった人をお祈りして治してあげようとすると、どれぐらいで治るのかと訊ねられた。
 「1日で治します」と言うと、
 「10年も病気だったのに1日で治るわけない」と言う。
 「じゃあ、1週間で治しましょう」と言うと、
 「10年、病気だったのに1週間ですか?」と今度は訊かれたという話があります。

 世界は1刹那(せつな)で切れているのです。
 「不垢不浄」は、けがれていない、きれいでないということです。
 罪の意識で病気になり苦しむ人がいます。
 「私はダメな人間だ」「私は汚(けが)れてしまった」「過去にこんな罪を犯しているから取り返しがつかない」・・・
 他人の評価に自分をゆだねているんです。

 人は“光”そのものです。“光”は汚れることができないし、傷つくこともできません。そして、“光”は歩みを止めることもできません。

 「不増不滅」は、増えたり減ったりしない、この世はスクリーンに映ったドラマなのですよ、とうことです。
 10円は描きやすいのに、100万円は描きづらいと自分が思っているだけなのです。
 描く手間は一緒です。

 自らが描き出した映像の世界に、のめりこみ、巻き込まれることによって、人は思い通りの人生を送れなくなるのです。

 スクリーン上で展開されている“増減ゲーム”からひとまず眼を放し、心の豊かさを持ちましょう。
 
 心さえ、たっぷりうるおって、あったかくて、光いっぱいの明るさをたもっていれば、豊かさのシンボルである“お金”ぐらい、いくらでもやってきます。

 文殊さんは「思いを断つことが大切」とおっしゃっています。
 だから、剣を持っていて、その「光の剣」で絶つ。
 文殊さんはウジウジをスパッと断っているのです。

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2008年8月24日日曜日

大敬先生の「般若心経」講義⑤普賢菩薩の心の法


 【菩薩の章】です。

 空海さんは、般若心経を唱えると、文章につられて「菩薩(ぼさつ)」が次々と現れる、そして、あなたの想いの実現のために協力してくださるようになると説いています。

 菩薩の出現の順番は①普賢(ふげん)菩薩、②文殊(もんじゅ)菩薩、③弥勒(みろく)菩薩、④観音菩薩です。


 「色即是空 空即是色」

 普賢菩薩は、白い象に乗っています。目標を立てて、それを願いとして、行(実践)をする時に、その人を守り、指導してくれるのが普賢菩薩です。

 般若心経の「色不異空(しきふいくう)~亦復如是(やくぶにょぜ)」というところを読むと、普賢菩薩が現れると空海さんはおっしゃっています。

 「色即是空(しくそくぜくう)」とは、映像はなくすべてスクリーンは真っ白ということ。
 「空即是色(くうそくぜしき)」は、真っ白なスクリーンなのでどんなことでも描ける。どんな映像も自由なんですよ、ということです。

 “心さん”に「イライラ」「不幸」「ぷんぷん」と書いている上に「幸せ」と書いても、「幸せ」は実現しません。

 「幸せ」と書く前に、その前に書き込まれている悪い文字を消さなくてはいけないですね。

 しかし、どうやって消すのか。消せないからみんな困るのです。

 普賢さんはその消す方法を、「行ですよ」と言っています。

 消す方法のひとつは、般若心経唱えることです。
 肉体にエネルギー持っていくと心にエネルギーが行かなくなります。ですから、読むとすっきりします。

 もうひとつ「足運び法」があります。このことも昔の人はよく知っていました。
 目標が決まったら神社でもお寺でも教会でも自分の足で歩いて行ってみる。
 「御百度参り」がありますが、目標のため100回お参りしてみてください。続けてやらなくてもいいのです。足を運び、100拝してみる。すると、心がすっきりする。目標がはっきりするのです。

 この他に、「善行回向法」もいいですね。
 これは、良いことをすることで心を広くする方法です。
 「エネルギー増える」ことが功徳が積まれることです。
 「徳」とは、人生において使用可能な心のエネルギーのことなのです。
 禅では「功徳」を大事にしています。
 エネルギーないというのは功徳がないということです。
 人が誰もついてこないのは功徳がないためです。

 スポーツすることもいいです。「スポーツ法」ですね。
 スポーツをして、その後、天に向かって「幸せになるぞー!」と叫ぶ。
 すっきりした心で実現を願うので、叶います。

 以上のようなことが、普賢菩薩の方法としてあります。

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2008年8月22日金曜日

大敬先生の「般若心経」講義④この世の仕組み

 【概説の章】

 五蘊皆空(ごうんかいくう)

 五蘊とは「色」「受」「想」「行」「識」のこと。

 命は「永遠の光」です。
 昔からずっとそうでした。
 でも、それだけではおもしろくないので神様は“心さん”をつくりました。

 光が“心さん”に降り注ぎ、当たって通り抜けると、そこには世界ができます。

 この世界のことを「色」と言います。
 その「色」を見て、「受」けとり、「想」い、心に描きこむことを「行」と言います。
 “心さん”がドラマつくることが「識」。
 この「色」→「識」までを「刹那」と言います。
 一巡、一巡でこの世はプツッ、プツッと切れているのです。

 「心に書き込むと、そこに命の本質である光が当たり、「世界(人生のドラマ)」が現れる」

 この仕組みを先人は発見した。これが「五蘊」です。

 「悪循環」はよく知っている方が多いと思うので、「善循環」の例をあげますと、
 この人イヤだなと思う人のことを、ひとつでも良い点を探すように心がけて「ちょっといい人」にすると、それが心に書き込まれ、ドラマ(目の前の世界)でも「ちょっといい人」になる。
 また、良いところを探して、「結構、いい人」と書き込むと「結構、いい人」としてドラマに現れる。
 この世はそういう仕組みになっているのですよ、と教えてくれているわけです。

 “心さん”は、ドラマが大好きです。書いたことをすぐにドラマにします。
 「想」まではカット(除去)可能ですが、一度“心さん”に書いたものはカットできません。

 「観自在菩薩」という神様はこのことを発見して、この世の問題を解決された方です。
 観自在菩薩とは、観ることが自在であり、どんなことでも観ることができるということ。
 観ることで世界を作り直せる、世界を自由につくれる方です。

 ①観方を味方にする
 
 ②「心」が先で「形」は後

 心に映ったことは世界として現れます。
 問題だなと思うことは、心に映る前に消すということです。

 ある方が、結核にかかり、その直後、「心を変える」この仕組みに気づき、最初は無理しながらでも笑うことを練習すると結核がすっかり治ったという話もあります。

 人は一人ひとりが、本質は光です。
 「永遠の光」が自分なのです。
 「永遠の光」のイメージを心に映せるようになると、長生きできるし、豊かに生きられるようになります。

 根本は「我は光なり」です。

 禅宗はこの光を目指す宗派でもあります。

 この“心さん”の仕組み、「我は光なり」を自分のものにしていくと気をつけなくてはいけないことが出てきます。

 「スムージング現象」が起こるのです。
 良いことも悪いこともパッ、パッ、パッとすぐに結果として現れるようになります。

 生活の中で、お薦めするのは、「日拝」です。「日拝」がいい。
 日の出を礼拝する。朝日を心に刻み込む。
 最低100回やると変わってきます。
 般若心経もいらないほどです。

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2008年8月20日水曜日

大敬先生の「般若心経」講義③”心に任せる”と願いごとは叶う

 【経題の章】です。

 般若心経は“心のお経”です。

 心の性質を「摩訶(まか)」「般若(はんにゃ)」「波羅蜜多(はらみった)」の3つあげています。

 「摩訶」は、大きい、という意味です。心の大きさを表しています。

 心というと、“ハート”と言って心臓ぐらいの大きさを連想するかもしれませんが、心は身体より大きく、そこには山や月、太陽も入るぐらい大きいのです。

 「般若」は知恵のことです。
 “心さん”は頭がいい。すべてを知っています。

 外出した帰り、電車の中で雨が降り始めました。
 リックサックの中には大事な本が入っています。
 濡らしたくないので、
 「雨が降ったけど濡れないでよかった」と奥さんに言っている自分をイメージします。
 駅に着くと小雨になっていました。
 効果はあったけど、「僕の力はこの程度かな」と思う。

 そう思いながら空を眺めていると、車がすっと横にくる。
 窓が開いて、「どこまで行かれるのですか?」「それなら、よかったら乗りませんか」と声をかけられる。
 本は無事濡れませんでした。
 “心さん”がすべて知っているので、“心さん”に任せておいたらいいのです。
 自分の力ではなく、心に任せる。
 しかし、任せられない人が多いようです。
 私のような“弱虫”ほど任せられるようです。

 頼み方も大事です。
 「雨をやみなさい」というような自然現象を変えようとするお願い事はよくないようです。


 「波羅」はゴール(目標)のことです。

 「蜜多」は行った(行ってしまった)。

 “心さん”はイメージを自動的に形にしてしまうという力を持っているのです。
 私はこれを「お自動さん性」と呼んでいます(笑)
 自動的にゴールに行ってしまうのです。
 
 「あくび」をします。実は少し前に自分の前にいる人があくびをしていた。周りの行動が自分に影響してくるのです。

 「病気、治れ」とイメージすると病気になります。
 「治れ」という否定語のイメージはなかなか難しいようです。
 ですから、
 「健康になれ、健康になれ」とイメージすることが大切です。

 「広い心」は思いを実現します。
 「のびのびした心」「弾力のある心」「温かい心」「明るく潤いのある心」が心のエネルギーを高めます。

 願い事の「目標」をまず集中してつくります。きちんと確立すると、寝ていても目標は心の中で生きています。
 「お任せ」しておくと、“心さん”は目標に向かって飛んでいきます。
 そのためには「仕事など日常生活をしっかりする」ということが大切。

 目の前のことを大切にしないと、“心さん”が目標に飛んでいけないようです。

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2008年8月13日水曜日

大敬先生の「般若心経」講義②読むだけで成功体験につながる

 大敬先生の2時間の講演の醍醐味を少しでも直接お伝えさせていただくために、講演内容の概要という形で今回はご紹介いたします。
 話の流れも内容もほぼ忠実に記したつもりですが、なにせメモからの文章起こしですので誤解、誤表現、誤字等があるかもしれません。ご容赦いただいたうえで、お気づきになられましたら、後学のためにぜひお教え下さい。よろしくお願い致します。


【般若心経講座 ―心による想いの実現法―】

 般若心経は、「目標達成のお経」です。

 インドから般若心経を持ってきた玄奘三蔵(げんじょう さんぞう、三蔵法師)は長き旅の間、大変な苦労をされたが、苦難に直面すると般若心経を唱えることで乗り越え、目標を達成することができたといわれています。
 
 江戸時代に、塙保己一(はにわ ほきいち)という人物がいました。
 9歳で盲目となり、江戸に出てきたが己の境遇、人生に絶望し16歳で自殺するも助けられ生き残りました。
 「学問したい」という希望を持ち続けている保己一は按摩(あんま)を習い、始めます。
 しかし、お代はお金ではなく、本を読んでもらうとしました。そして、抜群の記憶力でその内容を覚え、学んでいったのです。

 その噂を聞いた旗本の松平氏が感心し、保己一を呼んで一日おきに朝4時から8時まで勉強させてあげることを約束しました。

 「源氏物語」を聞かせてもったことに感動し、保己一は34歳で文献をまとめる作業を手がけることを決意します。

 この時、目標を達成させるために、保己一がやったことは、般若心経を読むことでした。
 1000日間、毎日100巻唱えることを神に約束しました。計10万巻唱えることを誓ったのです。

 41歳で刊行始めます。弟子も増え、作業は順調に進みました。
 しかし、保己一、47歳の時に火事に遭い、それまでの全てが燃えてしまいます。

 これには弟子達も深く落胆し、師である保己一に涙ながらに「先生、これでもうすべて終わりです」と訴えます。

 しかし、この時、保己一は、

 「お前らには手も足も頭もある。それに俺にはない目もあるじゃないか。やり直しや」
 と笑顔で述べ、再建を目指します。

 そして、74歳で記録や手紙にいたるあらゆる資料をまとめ編纂した「群書類従」をとうとう仕上げることができたのです。

 その後も生涯に渡って保己一は、般若心経を1日100回唱えたそうです。

 保己一にまつわる有名な話は他にもあります。
 ヘレン・ケラーが保己一の伝記を読んで大いに励まされ、発奮したのです。
 ケラーは、初来日した際、渋谷の保己一縁の地をまず訪れ、保己一の銅像をさわり、机にふれて

 「自分が今あるのは、この人の御蔭です」と言ったそうです。


 鍵田忠三郎(かぎたちゅうざぶろう)は、奈良市長も務めた政治家ですが、38歳の時、結核になりました。 
 当時、結核は不治の病で、医者から「残り2年の寿命」と診断されます。

 鍵田は、弱ったからだで四国のお遍路に行くことを決めます。1番札所から歩みます。進んでも、進んでも死にません。でも、28番札所までたどり着いた時、倒れてしまいました。

 病状は悪化し、病床で一度息を引き取ります。しかし、間もなく再び息を吹き返しました。
 この時のことを鍵田は「大きな命を知る」と述べていますが、臨死体験を経て再び生を得たのです。
 起き上がり、検査した時には結核はすっかり無くなっていたのです。
 
 「おまけの人生」と生き返ったと鍵田は述べ、生きている間に般若心経を100万巻あげるとの約束を神と交わします。
 
 保己一にして10万巻なのに、これの10倍です。
 この約束によって鍵田は簡単には死なないという運命を得ました。
 神様との約束だから、果たすまで長生きすることになるからです。

 神様との約束にはこうした工夫も実は必要なのです(笑)


 「シェルドレイクの仮説」というものがあります。
 これは「直接的な接触が無くても、ある人や物に起きたことが他の人や物に伝播する」という学説で、「経験の場」ができると、次に他の人の経験がたやすくなるということを説いています。

 そうした意味で、般若心経は、先人が般若心経による目標達成の“経験の場”を開いてくれているといえます。

 般若心経は読むだけでそうした成功体験につながるのです。

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2008年8月12日火曜日

大敬先生の「般若心経」講義①「先人はすごいものを残してくれました」

 立花大敬先生の10年ぶりとなる東京講演会のテーマは「般若心経」であった。

 このブログでもこれまで何度か「般若心経」について書いてきたが、僕は5年ほど前から写経を書き始め、これまで900枚ぐらい書いてきたが、その内容、意味等についてはあえて考えないようにしてきた。

 なぜなら、写経を教わった方々から「意味とか中身は深遠すぎてわからないものなんだよ」「私もひたすら書いているだけ」などと言われてきたからだ。

 その当時、すでに2万巻とか3万巻をひとりで書いてきた人から「わからない」といわれるとやはりそれなりの信憑性がある。

 また、般若心経は中学生の頃から諳(そら)んじ(させられ)、それなりの興味はあったので、写経を書き始めるずっと前に般若心経本を数冊か読んだことがあったが、「なんだかよくわからない」という記憶しかなかったので、そういうものなのだろうと思い込んでいた。

 それが、ここ数ヶ月、般若心経の解釈に関して興味を持ちなさいというシンクロがいくつか起こっていた。
 そのへんはブログで紹介していないが、難解でうまく言葉にできるまでは至っていないためで、「この世の仕組み」「人が向かうべき未来」を示す叡智(えいち)が般若心経には記されているらしいというところまではぼんやりわかってきた。

 そして、立花大敬先生が東京で講演するということを偶然知り、その場で満席だろうなと思いながら電話してみるとまだいくつか空席があると聞かされてすぐに予約し、10日の講演会を待った。

 
 講演当日、穏和な笑顔をうかべた大敬先生は、開口一番、

 「般若心経は目標達成のお経です」と述べられた。

 過去、人類には数々の般若心経による成功体験がすでにあり、そのため、現代の人が唱えることでその偉大な成功体験に繋がっていく流れができているのだそうだ。

 そして、

 「先人達は、すごいもの(秘法)をこの般若心経という形で、残してくれました」

 と般若心経のその「すごさ」について話し始めた。




 「般若心経に関わっていてよかったな~」と以前、玄蔵三蔵の旅の話を聞いた時に思ったことがある。

 http://kansya385.blogspot.com/2008_05_01_archive.html(5月17日付)

 今回の話はそれと同じぐらい、いやそれ以上に、般若心経に関わっている方々にとって大いなる歓びとなる話であると僕は確信する。
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2008年8月11日月曜日

「休息時期」が明けて西郷さん銅像清掃と大敬先生

 夏風邪が良くなってきたと思ったら、パソコンが・・・、と続き、「どうやら休息時期だったのか」と気づく。

 双方の細かな「原因」も次第にわかってきたら、


 「すべての『因』に感謝する『心』が『恩』」である」という言葉に出会う。


 こんなシンクロにも感謝、感謝です。


 10日日曜日は、月1で行くことに決めた上野の西郷さん周辺の清掃に行き、それを終えて午後からは渋谷で立花大敬先生の講演に向かう。

 教師になったために、事実上10年ぶりだというこの講演は主催者の社長との古いつきあいから実現したことを会場で知った。

 「定年が5年後なので、次は早くて5年後です」という貴重な貴重なご縁だった。

 表情、語り口、そして発する気すべてがやさしさにあふれた人だった。

 講演を終え、日帰りで福岡に帰るために、参加者の間をリックを背にさりげなく去っていく先生を見つけた。
 誰も気づかないようなのでその背に声をかけ、今日のお礼と「福岡に今度うかがいます」と伝えると、「ぜひ、いらしてください。向こうではゆっくりお話できます」と、近くで見ると舞台上よりも、もっとやさしさにあふれたその笑顔をたたえながらそう返答していただき、握手して別れた。

 講演内容は「般若心経」についてだったが、想像を遙かに超えるすばらしい内容だった。

 頭の中を整理して近くご紹介したいと思う。

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2008年8月6日水曜日

「天界の禅者大いに語る」の中のいい話

 10日日曜日に立花大敬先生の講演に参加できることになった。
 数ヶ月前から著書を通じて感銘を受けていたが、九州をフィールドとして活動されている方なので、まさかこんなに早く直接話を聞けることになるとは思ってもみなかったからとってもうれしい。

 テーマは「般若心経」についてである。
 
 今年はさまざまな方向からこの「般若心経」に関するシンクロが続いているので、自分にとって何か大切な意味があるのかも知れないと思い、異なる著者の解説に目を通してきたが、そうした意味でも10日は楽しみである。

 大敬先生の古い著書「天界の禅者大いに語る」を昨日、読んでいた。
 東京は朝から天気が不安定で、場所によっては集中豪雨となり、事故が発生するほどだった。
 仕事の訪問先を辞し、町を歩いていると雷が鳴り、空が真っ黒く変わってきたので、コーヒーショップに寄り、窓に面した席に腰掛け、「天界の禅者大いに語る」の続きを読んでいた。
 しばらくすると大粒の雨粒が窓を叩き、それを合図とするかのようにして大雨が激しく降り始めた。
 そんなあまり日常的ではない状況で読んだからではないと思うが、読み終えてしばらく心を落ち着けるために本を閉じ、雨空を眺めていなくてはならないほど胸にしみるいい話があったので、ちょっとご紹介したいと思う。



 これは、内垣日親先生の御本の中にあった話です。
 先生は若い頃、たしか姫金神教という大阪森の宮にある教会で、その教祖について修行しておられました。
 ところが、そのおばあさん教祖は、自由に雨を降らせたり、止めたりされるのです。先生は、それが不思議でしょうがない。いったい、どんな呪文をとなえ、どんな印をむすべば、そんな事ができるのか知りたかった。それで、ある時、思い切って、教祖さんに質問したのです。
 「いったい、どうやって雨を降らせたり、止めたりするんですか」
 すると教祖は言われたのです。
 「ああ、そんなこと、簡単やがな。それはなあ、私が空に向かってなあ、雨を降れ、というたらな、雨が降ってくる。雨よ止まれ、いうたらなあ、雨が止むんや」
 それで、先生はギャフンときてしまったのです。まことにそうにちがいないと納得されたのです。
 この教祖さまは、まことに一点の私心もない、術も策もない、そんなまるで子供のような無邪気なお方であったそうです。
 お金に困っている信者さんが来たら、あるだけのお金をさっとあげてしまう、そんな風なお方であったそうです。
 ひとつだけ、私が最も感動した話を紹介します。
 この内垣先生は、もうその頃には、この教会の副管長になって、教団の一切を取りしきっておられました。
 ところでが、神様から教会を出よ出よといわれる。この教団の神様が言われるのです。出てヨーガの勉強をせよと言われる。それがたび重なるので、内垣先生は、教祖にそのことを相談したのです。
 「私が出たら、この教会は、たぶんつぶれてしまうでしょうがどうしましょうか」
 この教祖はすぐに言われました。
 「よろしい、出ていきなさい。この教会ぐらいつぶれてもかまいません。それであんたが大きくなったらいいのやから」
 どうですか、こんなに私心のないお方なのです。
 そんな<まこと>のお方だから、その人の言葉は<真言(まこと)>になる。そして<真事(まこと)>となり必ず実現するのです


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2008年8月5日火曜日

祈りは通じる

 元カリフォルニア大学の心臓病専門の教授であったランドルフ・ビルド氏は、祈りが病気を癒すのか実験をした。
 
 自分の病院の心臓病の患者をAとBに分ける。
 コンピュータを使いランダムに分け、その分類は医師も看護婦も患者も知らないようにする。
 Aは祈ってもらうグループ、Bは祈りを受けないグループとした。

 祈り手は宗派にかかわらず募集し、患者の名前、症状を教え、毎日その人のために祈るよう依頼した。
 そして、祈り方はその人に任せた。

 その結果は次のようなものであった。
 ①AはBに比べて抗生物質が必要であった人が5分の1だった。
 ②Aでは心臓病のため肺気腫になった人がBの3分の1だった。
 ③Aには、のどに管を入れることが必要になった人はいなかったが、Bには12名いた。

 この実験から、祈りは病気を癒すことがわかった。
 また、宗教や宗派でその有効性が変わるわけでなく、「想い」が身体を超えて相手の病気を癒すことが明らかになった。

 祈りは確実に通じるのである。

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2008年8月3日日曜日

「西郷さんの御陰」


 先週のことになるが、敬天愛人フォーラム21が主催する講演会にお邪魔してきた。

 今回は、奄美大島出身で、島唄の第一人者である朝崎郁恵さんの講演である。

 7月はじめに、上野の西郷さんの銅像周辺の清掃に参加したのがご縁で、声をかけていただき、講演会には初めての参加となる。

 神田駅すぐの会場に開演時刻7時の20分前にうかがうと、「西郷隆盛会館」にはすでに定員枠に近い30人ほどの参加者が集まり、熱気にあふれていた。

 受け付けをすませ空いているスペースを見つけて座り、会場を見回すと女性の参加者が結構多いこと、そして年輩者が多いことに気づく。平均年齢は65~70歳といったところで、僕などはダントツの“若手入り”であることは間違いない。

 定刻ちょうどに開会。まずは起立して、国家「君が代」斉唱であった。

 「思想的に右も左もなし。西郷さんが歩まれた通り、我々は真ん中を歩んでいく。歌いたくない方は歌わぬももちろん良しとしております」との司会者の断りがあった後、国家斉唱が始まる。それにしても、おじいさま方は良い声をしていらっしゃる!

 その後もすぐには講演には入らない。西郷さんの好んだ言葉である「敬天愛人」の教えを、そして上野公園の西郷さんの銅像の台座にも刻まれている「西郷隆盛を称える辞(ことば)」を内(うち)代表世話人が一小節ずつ諳(そら)んじるのに続いて全員が声をそろえて唱えていく。老若男女関係なく、まるで寺子屋の生徒のように。

 この日の朝崎さんの歌う島唄は哀切あふれるものであった。歌に先立って朝崎さんから「島唄は島(奄美大島)の歴史を歌っているのだ」との説明があったが、沖縄の島唄の明るさをイメージとは明らかに異なっていた。単に選曲がそうだったのかもしれないけど。

 奄美大島は西郷さんの流刑の地である。この地で家庭を築き、本人も一時期はこの地で終生暮らすと考えていた場所である。
 そして、どこにいても人をこよなく愛する西郷さんは、島の人々には教育者として思想と教養を伝え、島民に自立自尊の気概の大切さの種をまく役割も担った。
 朝崎さんは70を過ぎたが、新たな挑戦を今後も続けていく決意を西郷さんに伝えたくて、今夜は”奉納”のためにここで歌うことにしたと説明した。

 公演後の懇親会は大変活気あふれる宴となった。南九州の宴は老若男女関係なく元気あふれ、熱のこもったものになるのだが、そのことを知らない他の地の出身の方は最初は少々驚かれたことだろう。

 宴もたけなわになった頃、参加者一人ひとりによる自己紹介が行われ、これがなかなか印象深いものであった。
 代表世話人の内さんが奄美大島同様、西郷さんが流刑されたことのある沖永良部島の出身であることもあってか、同島の出身の方や喜界島の方など島出身の方も数多くいらっしゃっていた。
 この島の出身の年輩の方々があいさつの中で西郷さんを語る時、必ずといっていいほど、「今の自分たちがあるのは西郷さんの御陰なんです」とおっしゃるのだ。
 話をよくうかがってみると、島の家庭の多くは子供の教育をことのほか大切にするのだそうだ。親は自分の食べるものを削ってでも子供を学校にあげようとする。これは、西郷さんが島に来てから芽生えた考え方で、その教えを得た環境で育ったからこそ、自分たちは島を離れても堂々と生きていけるのだと皆さんが笑顔で話してくれた。

 西郷さんは、昨年、生誕180年を迎え、今年は181年目である。
 それだけの歳月を経てなお、「あなたの御陰で今の私たちがある」と言われる西郷さんという人物を思い、慕いながらうまい酒を酌み交わすことの出来たすばらしきひと夜であった。

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2008年8月2日土曜日

「ノルウェイの森」が映画化

 最近はあまりにもネガティブな報道が過ぎるので、テレビも新聞もほとんど見ることはないが、友人に知らされて、思わず「えっ!?」と一瞬、固まってしまい、その後なんだか懐かしくうれしくなったニュースが、村上春樹の小説「ノルウェイの森」が映画化されることになったという知らせである。

 ちょうど20年前に出された作品である。村上サイドからなかなか許可が出ないという話はずいぶん前に何かで読んだ記憶がある。
 当時、村上作品はデビュー作から読んでいて、新刊が出るというのでウキウキしながら本屋に向かったら、あの上下巻が真っ赤、真緑のクリスマスのような派手な表紙である。2冊を手に持って、レジに並んでいるのが少し恥ずかしかったことを今でも覚えている。
 
 そして、この作品で村上春樹は一躍メジャー作家の仲間入りをし、僕にとってはなんだかちょっぴり遠い存在になったような寂しさを感じた作品である。
 
 映画化については、非現実的な登場人物がいない分、他の作品に比べると映像化しやすいような気がするのだが、ずいぶん長い歳月を要したものである。

 昔、「風の歌を聴け」が映画化されたことがあり、しかも大森一樹がメガホンを握ると知り、これは結構観れと踏んで劇場に行ったら、とんでもなくひどい作品だったという経験がある。この作品で“僕”を演じていたのはなんと小林薫だった。

 そうした意味では、ベトナム系フランス人の監督が異なる文化からクールな観点で撮るということになれば、いい選択なのかもしれない。
 
 20年前に読んだ記憶なので不確かだが、作品全体を通して“静謐さ”がただよっていたように思う。特に僕の中では静かに降り続ける雨のシーンが随所に思い浮かんでくる。「雨を上手に撮れる監督だったらいいな」と思う。

 “僕”がガールフレンドと古い木造住宅の二階のベランダから火事を眺めるシーンが、まるで自分が経験したことのように今でも強く印象に残っている。そのシーンも映像で観てみたいなと思う。

 2010年に公開されるそうである。その前にキャストが誰になるのかも楽しみである。

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