2009年9月11日金曜日

個性

「自分の作品に責任なんて持てません。だって私が作っているのではなく、神様に作らせていただいています」

この言葉は、寝食を忘れて作品に没頭したと言われる天才版画家、棟方志功さんの言葉です。

はたから見ると、熱情の画家ピカソと同様に芸術のエネルギーに満ち溢れ、才能の塊のように見える棟方志功さんですが、彼の心の中ではそのような偉大なる力とのつながりが働き、すべてを「お任せ」していたのだなとこの話をうかがった時、私は大いに感動いたしました。


現代は、「個性」を前面に出すことがとても重要なことであるかのように取り上げる風潮があります。

中でも、“個性の最前線”にいつでもいるよう求められているのが、いわゆる「アーティスト」と呼ばれる世界の人たちです。

この世界の人たちは、はたからそう評価されるだけではなく、自らも個性を売り物にしている人が数多くいます。
また、若い人たちも、個性的であることが存在理由であるかのように、「私は、私は」「僕は、僕は」をフルタイムでアピールする人生を送っています。


でも、そんな「個性」について、画家の東山魁夷(かいい)はこんな風に述べています。

「一見、逆説のように聞こえますが、むしろ自分を意識しないとき個性は現れるのではないでしょうか。

自己の主張を強く押し出すといいますが、果たしてそれが本当に自分を認識しているのか、疑問に思うこともあります。個性は自分が認識しているものではないところに現れているように思います。
個性と自己主張は同じものではありません。
私の絵には自己主張の迫力というものはあまり現れていません。でも、自分が受けた感動を素直に表していくと、そこに自分の本当のものが現れているのではないかという気がします」

個性は自己主張とはやはり異なるものなのですね。

すべての人が魂の中に自分の光を持っています。
「神様の器」に近づけば近づくほど、その魂の光が発し出します。
それが個性であるように私も思います。
「個性」は探し出すものではなく、すでに持っているものなのです。


「神様の器」に近づくための方法はいろいろなことがありますが、ひとつは「楽しむこと」にあるように思います。

自分の目の前のことを楽しむことです。

今を楽しめずに、明日に楽しみがあると思うから苦しみが生まれます。
今を楽しめずして、明日に楽しみはないということを多くの神人、聖人が昔から教えてくれています。

「論語」雍也(ようや)篇にも、こうあります。


「これを知る者はこれを好む者にしかず。これを好む者はこれを楽しむ者にしかず」

どんなことも、これを知っているというだけでは、それを好きだという人の力には及ばない。そして、それが好きだという人よりも、それを楽しんでいる人はもっと上である。