夏目漱石の小説の中でも特に好きな「文鳥・夢十夜」を関東平野を我が物顔で暴れ回る春一番のにぎやかな風音をBGM変わりに聞きながら読む。
中でも夢十夜の第六夜を読み返してみたかった。
運慶が護国寺で仁王を彫る話である。
“自分”は運慶の刀の入れ方があまりに無遠慮なので、見物しながら「能(よ)くああ無造作に鑿(のみ)を使って、思う様な眉(まみえ)や鼻ができるものだな」と言う。
すると、ちかくで一緒に見ていた訳知りの若い男がこう答える。
「なに、あれは眉(まみえ)や鼻を鑿(のみ)で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、鑿と槌(つち)の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出す様なものだから決して間違う筈(はず)はない」と。
これを聞いた“自分”は彫刻とはそんな簡単なものだったのか、そうなら自分にでもできると思い、うちに急いで帰って、道具箱から鑿と金槌を引っ張り出してきて樫(かし)の木を彫り始める。でも仁王は見あたらない。2本目の木からも3本目からも仁王は出てこない。家の裏に積んである薪(たきぎ)を片っ端から彫ってみたが、結局最後まで仁王は現れることはなかったという話である。
僕は20年ほど前にこの作品を読んで、これほど芸術というものをうまく表した文章はないと思った。そして同時に、幼い頃、青森に住む父親の友人から冬場になると毎年送られてくる木箱に入ったリンゴのことを思い出した。
当時、リンゴは籾殻(もみがら)の中に入っていた。いくつも食べて残り少なくなってくると籾殻を手でよけながら探す。すると籾殻の奥から丸くて赤いリンゴが少しずつその姿を現す。籾殻の中からまるでリンゴが生み出されてくるみたいに。
モーツアルトも幼い頃、「なぜそんなにすばらしい曲を次々につくれるのか」との問いに対して、「自分の身体の奥で鳴り響ている曲をただ楽譜に写し取っているだけなんだ」と答えたというような逸話があったようと記憶する。
ひとつの仕事を長年しているが、そんな境地のさわりさえ捕まえることはできない僕にとっては、ため息の出るような天才達の世界であるが、籾殻の中のリンゴを探したあの頃のドキドキした思いにも似た楽しみを持って仕事、生活に臨んでいきたいと思ったりする。
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