2009年8月27日木曜日

自在

「自在」であること。

いつも心がけていることですが、なかなか簡単にはできないことです。

「自在」は、私がいつも考えている「執着」とも深くかかわることでもあります。


「いつも神様の器でありたい」


そう願って日々過ごしていますが、気づくと、神様とは程遠い「私の器」になった自分がドシンと目の前に鎮座していることがしばしばです。


悪いことに「執着」しない方がいいのは、不幸や不運が改善するどころか、「深刻化」か「延長化」しかしないためです。

良きことへの「執着」もまた、そのことが、魂の大切なスペースを占領してしまいます。
このため、成長のための新たな良きことが入ることができなくなり、通過して他の人のところに行ってしまうことになります。
また、「良きこと」と思っていたことも、その瞬間は良きことと思えても、“今”を過ぎれば過ぎるほど熟れ始め、形が変わり、消えて行くことにもなってしまいます。

実は人は、この瞬間にも、死んでいるのです。

そして、次の瞬間には、生まれています。

死んでは生まれ、死んでは生まれの連続が人生なのです。

だから、いつでも生まれ変わることはできます。

やり直すに、何かを始めるに、「遅い」ということはないのです。

自分のやるべきこと、神様からのメッセージ、それらはすべて目の前の“今”にこそあるのです。

今ここに生きている真心込めて生きている人を神様は応援してくれます。

そのように生きていると、自分の「天命を全う」できます。

このことは、神様からのお勤め、お役目が終わらない限りは(天命を全うするまでは)、いかなることがあろうと、生命を奪われることはないという確たる自信を持った生き方ができることにつながるのです。


「自在」を思う時に、思い出すいくつかの話があります。

この中からふたつのお話を今日はご紹介したいと思います。

ひとつ目は、私の好きな良寛さんの逸話です。

庄屋の阿部定珍(さだよし)さんは、良寛さんへの主な施し主でした。

ですから、良寛さんは阿部さんの家に托鉢(たくはつ)にやって来ることがたびたびありました。遅くなると、阿部さんの家に泊めてもらうこともありました。

そんな関係ですから、食事時の、食膳の位置も決まっていました。

良寛さんは無頓着な性格です。食器などがいつもと違っていても、目の前にお膳が置かれていると、「いただきます」と言って、箸を取り、食べてしまいます。

時には、魚の汁物が出されていても、知らないかのごとく食べました。

それに気づいた家の者が、

「あれっ、良寛さま、それは鱈(たら)汁ですよ」

と教えると、そこで初めて、

「あっ、そうですか」

と言って、食べるのをやめたそうです。



今のお坊さんのことはよく知りませんが、昔のお坊さんは殺生を固く戒めていましたらから、食べ物も肉や魚をまったく口にしませんでした。良寛さんもそうした「決まりごと」の厳しい時代に生きているのですが、目の前に鱈汁が出されてくると感謝していただいてしまいます。
「それには魚が入っていますよ」と言われるので、「はい、そうですか」と素直に箸を置きます。
良寛さんは神様の器になりきれた人ですので、目の前のことはすべて神様からのお役のように、いただきもののように、素直に、歓びを持って、受け入れていきます。
「いけませんよ」と言われたのも、人の口を借りて神様から言われたかのごとく、素直に受け入れます。
とっても、「自在」ですね。
とっても良寛らしい逸話だと私は思います。



もうひとつは、道一和尚さんの話です。

ある日、彦根の清涼寺の道一和尚さんが足にお灸をしていました。
すると、そこに旧知の医者がやってきました。

「和尚さん、今日は不浄日です。不浄日にお灸をすえると悪いことが起こりますよ」
と注意しました。和尚はすぐに、

「ああ、そうですか。では、やめることにしよう」

と言って、灸箱を片付けてしまった。医者は二時間ほど歓談して帰っていきました。

医者が帰ると、和尚はまた灸箱を取り出してお灸をすえにかかりました。

それを見た小僧さんが、

「和尚さん、今日は不浄日ということでしたが、大丈夫なんですか」

と聞きました。すると、道一和尚さんはのんびりとお灸をすえながら笑って答えました。

「心配しなくてもいいんだよ。不浄日はいま、帰ってしまったよ。わしは禅僧じゃ。浄、不浄には惑わされないだけの修行はしてきたつもりじゃよ」

「なるほど、そういうことだったのですね」


道一和尚さんも、よく知る医者から言われたら、そうではない立場にあろうと、「そうか、そうか」と言って、お灸をやめてしまう。「不浄日」が帰り、不浄日が過ぎ去ってしまうと、再びお灸をのんびりと始める。

目の前の今にきちんと向き合い、応えながら、意地を張り固まることなく、自由に、素直に生きています。

ここにも素晴らしい「自在」があります。

先人たちの息吹にふれて、少しずつでも、今この人生で、「自在」を持った生き方ができるようになりたいものですね。

4 件のコメント:

匿名 さんのコメント...
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Unknown さんのコメント...
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日月神教-向左使 さんのコメント...
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小嶋です さんのコメント...

こうありたいですね。