2008年3月14日金曜日

「走ることについて語るときに 僕の語ること」


 右足のふくらはぎを痛めてからというもの、ジョギングをずっと休んでいる。

 5年前に公園で遊んでいる近所の子供たちを集めてリレー式の競走をしていた。
 僕の番が来たので、意気込んで走り出し10㍍ほど走ると右足を細い棒でピシッと叩かれた。そう思った僕は誰だろうと思い、振り返ったがそこには誰もいなかった。
 「今の音、聞いた」って訊ねようかと思うぐらい大きな音がした。
 すぐにもう一度走ろうと右足を地面につけた途端、激しい痛みに見舞われ、走るどころか歩くことさえできないことがその時になってようやくわかった。
 「右足のふくらはぎの筋肉断裂」との診断結果だった。
 「すごい音だっただろう」と病院を出るときに聞いたが誰もが音なんか何にもしなかったと答えた。

 それから松葉杖を必要とする生活を1ヶ月間送った。
 ぴったり1ヶ月目に松葉杖をはずし、ケガをする前の生活に戻った。翌日は病院に松葉杖を返しにいった。
 その翌朝は初夏を思わせるようなよく晴れた休日で、家族で近所の海に行くことにした。
 まだひんやりとした水に素足を入れて浅瀬を歩いていると横を歩いていた子供が足を滑らせ倒れていくのが視野の隅に入った。とっさに僕は手を伸ばしながら一歩足を前に進めた。
 その瞬間、2日前までかばっていた右足のふくらはぎのまったく同じ部分の筋肉が再びピシッと音を立てて切れた。

 それから5年が経ち、先月はじめに痛めたのもまったく同じ部分だった。
 交差点の横断歩道を待ち、信号が青になったので歩こうと左足を一歩踏み出した瞬間、右足のふくらはぎからピシッと前に聞いたことのある嫌な音が耳の奥に響いた。
 「あ、やってしまった」と自然に声が出そうになってその場で立ち止まった。
 でも、今回は歩けた。恐る恐るだが、痛みはあるももののゆっくりなら問題なく歩けた。素人の見立てだが、3分の1ぐらいは切れたが、あとはまだ切れずにつながっている、って感じだ。

 前回は1度きりなら気づかなかったと思うが、2度も同じことが続いたので、これは僕に向けた何かの“サイン”なのかな、とその頃もやはり考えたことがあった。
 そして、5年の歳月を経て、まったく同じ所を痛めたことで、前回のことを思い浮かべ、符合することや重なる状況を回想してみた。
 前回も僕なりに”サイン”の意味への推論を建てたのだが、両方に共通することは、
 「何か新しいことに踏みだそうとする時に鳴らされる警告」
 なのではないかということだ。

 5年前もそうで、今回もまた新たな展開が目の前にどんどん具体的になりながら現れている。
 新しいことは往々にしてそうなのだが危うさもはらんでいる。
 赤荻先生からも、「今年の運勢は悪く来年から飛躍が始まる」「今年はジッと力を蓄え備えていく時期」とのアドバイスをいただいている。

 よく考えた末に出した結論は、
 「こんな時は『念』しかないかな」ということだ。
 「念」という字は「今」と「心」という文字で出来上がっている。
 先々をああだこうだと考えずに、「今、目の前のその時を自分の心を込めて生きる」ということが、「念を持って生きる」ということらしい。

 村上春樹の「走ることについて語るときに 僕の語ること」を読みながらそんなことを昨夜は考えていた。

2 件のコメント:

nozomi さんのコメント...

ふくらはぎ断裂のとき、わたしも確かに音を聞きました。あれは痛い。よく治してください。これからは右足から踏み出すようにしてはいかがでしょうか?
あと、それは、砂蒸しで心と身体を温めよ、という暗示では?

そわか さんのコメント...

nozomiさん、こんばんは。
筋肉断裂は痛いですよね~。どうやっても歩けないという経験を5年前のその時、初めてしました。さすがに松葉杖を返して2日後に同じことをやった時は、痛さよりも、「情けなさ」の気持ちのほうがグサリと“痛かった”です。
今回はおかげさまですべて切れていないせいか今のところ普通に歩けてます。
左足踏みだしがクセになっているようなので、明日から「右足から、右足から」を口癖にして、心がけてみたいと思います。
「砂蒸し」はいいですね~。「世界の果て」にふらりと帰ってリフレシュしたいなとぼんやり思っていたので、nozomiさんからのご意見が本日の「シンクロ現象」でした。ありがとうございます。