2008年3月11日火曜日

「期待はずれな本」と「無意味な本」

 期待はずれの本に出会った時は、僕は「ちょっと、(心身が)くたびれてきてるのかな」と自分自身に目を向けて気を配るようにしている。
 「気をつけてね」と小さな文字で書いた伝言を足首にくくりつけた伝書鳩のように、僕の手の上にやってきて、本の重みと肌触りを確かめながらそう思う。

 世の中には「期待はずれな本」は存在するが、「その人にとって無意味な本」は一冊として存在しない。
 時々、目に前に現れる「無意味じゃないことを他人に説明できない期待はずれの本」が確実に存在するだけだ。

 どんなにつまらなくても、本は自分の手にして自らの目で文字を追うという作業が介在して、つまらないかおもしろいかどうかは判断されることになる。
 世の中には毎日毎日300冊以上の新刊が出ているのに、多種多様な無数にある本の中から自分の手にのせて読むことになったわけだから、その時点ですでに大きな意味を持っているのだ。

 彼らは何かを伝えにきている。その人だけがわかるシンクロ現象の“サイン”を伝えにやってくる。
 先日、僕もはかなりヘビーな期待はずれの本に出会った。
 200ページ足らずの薄い本なので一日もかからずに読んでしまえそうだけど、「タイトルも良し、装丁も良し、表紙の紙質も良し、これはかなりの“やり手”かもしれないなぁ~」と期待に胸膨らませ、意気込んで電車の中で読み始めたら10ページほどで、そっと網棚に置いてしまいたくなるようなシロモノだった。こんだけ大きくはずしたのは久しぶりのことだった。
 でも、見も知らない人の頭の中にあったモノがさまざま人々による工程を経て、本という形になってわざわざ僕のところまでやってきてくれたのだから、何かある。きっと何かある。
 そうなると、まるで宝探しのような気分になってしまう。パラパラとページをめくる、めくる・・・、
 終わり間際にそれは見つかった。
 こんな一行だった。

 「この人間を破壊させようと思うと、神々はまず彼らに怒りを抱かせる」

 という外国の「古いことわざ」だ。

 お釈迦さまがかなり口酸っぱく「これは特に気をつけてくださいよ」と試験前に黒板を叩きながら強調する先生のような調子で弟子たちに注意を促していたのが
 「怒らないこと」だった。
 この感情、この世に訪れた者にとってよっぽど良くないことらしい。

 疲れた時は怒りやすくなるというし、気をつけよう!「男はつらいよ」の寅さんじゃないが、「それをやっちゃあ(言っちゃあ)、おしめえよ~」らしいので。

2 件のコメント:

minori さんのコメント...

 こんばんは。ゆうべ、うわさの本を注文したら、いつも親身になってくれてる本屋さんが「それって、とってもいい加減な本ですよ。本当に買いますか?」という、ご親切にも確認のメールをくださいました。 わたしの好みには合わないが、と心配されたようですが、その「いい加減」の意味と、わたし自身の感じ方をこの目で確かめたくて、やっぱり注文しました。
 読むのが遅い方なので、苦労して読んで、ヒントや答えや余韻が残ったら、辛かったことも忘れます。  最後まで諦めないというのは、なにごとにも通じているのでしょうか。
 今日も、長女を相手にめちゃくちゃ腹立ててしまいました。修行が足りないらしい。。。

そわか さんのコメント...

 nozomiさん、ありがとうございます。
 近頃、「本選び」について考えることが多かったのでうれしいご意見でした。
 「本選び」って、とってもおもしろいですよね。大げさかもしれませんが「人生そのもの」のようにも思えることがあります。
 本選びは、自分がしているようで、実は「自分だけではしていない」ということに、少し前に僕は気がつきました。
 そのことで本との出会いもガラリと変わりました。
 本との出会いは、好きな人や大切な人、尊敬できる人、気になる人、家族や友人、知人から薦められて始まることが多いですし、その人たちもその人たちなりの縁でその本に出会っているわけです。多くの人や物事を介在しながら自分の手元にたどり着いたと考えると、雨風の厳しい中、休むことなく大海原を越えて飛来する渡り鳥のようにも思えてきます。
 nozomiさんのお知り合いの本屋さんもnozomiさんの「本選び」で縁のある人なのだと思います。そんなこともひっくるめて本との出会いがあると思うと不思議で心の中にじんわり感慨が広がります。
 本屋に暇さえあれば足を運ぶことは変わりませんが、最近では自分でこの本を買おうと特に決めずに立ち寄って、自分で本を選んでいるのではなく、「本に選んでもらっている」というような感じを抱きながら本屋の中をブラブラすることが多いです。
 それとかなり私見になりますが、「本に貴賤(きせん)はない」というのが僕の考えです。実用書なら善し悪しというものを問うことはある程度必要かもしれませんが、楽しむための多くの本においては、自分の手元に姿を現した時点で、少なくともその人に対して何らかのメッセージを持ってきていると僕は思っています。
 本の好き嫌いはもちろんありです。ただし、それは読む行為をした人の特権だと考えるのです。

 それと、本は必ず最後まで“諦めず”に読むかというと、年に3~4冊の割合で最後まで熟読できない本に巡り会います。こんな「期待はずれな本」と出会った時は、パラパラと速読のように読み飛ばすのですが、ブログでも書いたように「でも、どこかに何かメッセージがあるのかなー」と思い、パラパラを2、3回往復やったりしてます。
アメリカの作家(たぶん、ジョン・アービングだったと思いますが)が「つまらない本に出会ったらすかさず投げ出せるのが大人の特権だ」と言っていました。「おととい来やがれー」と放り投げてもいいと思いますが、「この『本選び』『本との出会い』をしたのはどうしてだろう?」「本が何かを伝えにきてくれたのかな」と考えて自分のコンディションや環境・状況を省みてみるのも楽しいかもしれません。