2008年1月4日金曜日

今年の一冊目は向田邦子「眠る盃」



 昨年12月始めにこのブログの中で「日本人の短編小説の旗手をあげるとすれば宮本輝、村上春樹、そして向田邦子」と書いたところ、友人から学生時代から宮本輝と向田邦子が好きで、向田邦子の「眠る盃」は手元にある本がボロボロになるまで何度も何度も読み返してきたというメールをもらった。

 ということで、僕は新年の一冊目は向田邦子の「眠る盃」を読むことに決めて、メールをもらった夜に本棚から探し出して机の上に置いておいた。


 「眠る盃」は基本的に短編小説の多い向田作品の中でも極めて短い短編のみで構成されている。
 しかし、その作品はいずれも、胞子の状態から丹精込めて育て上げ、使う人のしあわせを願いながらそのひとつひとつを美しいケースの中に収めていく真珠づくりの職人のごとく、日常生活の中にある人生の喜び、哀しみ、すばらしさ、切なさの一片をさりげなく、しかし的確に秀麗な文体で描かれ、読む者は作品を読み終える頃になると自分なりの”真珠”がそこにあることに気づかされる。

 「眠る盃」収録の5つ目に「字のない葉書」という作品がある。
 この作品は文庫本でわずか3ページ強しかない、ゆっくり読んだって5分とかからない“超短編”だ。
 僕は読み終える最後の数行を前に不覚にも泣いてしまった。

 白状すると、泣いたのはこれが初めてではない。
 12月の友人からのメールに「『字のない葉書』を読むと何度読んでも泣く」と書かれていて、「字のない葉書」ってどんな作品だったかな、と思い夜中に本棚から「眠る盃」を探し出しペラペラとページをめくりながら、僕は部屋の片隅に立ったままの状態でポロポロと涙を流していた。
 「字のない葉書」はそんな作品である。

 読まれる方に失礼なので、内容は詳しく書かないが、向田さんの父親と末の妹の物語で父親の子に対する思いを描いた作品である。
 ぜひご一読をお薦めするけど、ただし、本屋での立ち読み、電車や喫茶店で読むのはやめておいた方がいいと思います。

 また、この中には「鹿児島感傷旅行」という作品も収められている。
 向田さんは小学校5、6年生の2年間を親の仕事の都合で鹿児島で過ごした。数十年ぶりに訪れ、当時自宅のあった場所や学校を訪れ、先生や同級生と集まって語らう場面などが描かれている。

 昨年は僕も数十年ぶりの同窓生との顔合わせがあり、また、年明けは帰省とあわせてそうした懐かしき顔ぶれとの会合が開かれているはずだ。

 作品の終盤に以下の一節がある。

 ―――女の子に生まれた面白さを分かちあったのも、この時代の、その夜集った友達なのである。
 今、幸せなのかどうか。それは知らない。間に戦争をはさんだそれぞれの歳月は、一晩の語らいで語り尽くせるものではないし、ひとつ莢(さや)の豆が散らばるように、それぞれの場所で、花を咲かせ実を結べばいいということなのであろう。
 あれも無くなっている、これも無かった―――無いものねだりのわが鹿児島感傷旅行の中で、結局変わらないものは、人。そして生きて火を吐く桜島であった。

 僕も故郷の風景、そして人々とのことを懐かしく思い出しながら読ませてもらった。

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