2008年1月11日金曜日

治す意欲、生きる気力

 長年一緒に仕事をしてきた同僚が職場に来なくなってから半年以上になる。
 現在休職している彼はこの半年間、休日以外は毎朝、職場に「もうすぐ行けますから」と電話をかけてくる。
 電話から聞こえてくる声は病気を患っているようには思えないほど元気なものだが、痛風で歩けず、今は正座をした格好で両手で支えて身体を運ぶようにして移動しているという。
 ただ、痛風で半年間も歩けないということはあまりないらしいので、歩けない原因、職場に来ることができない原因はきっと他にあるのだろう。

 村上龍の小説「希望の国のエクソダス」の中に、脳に血液の量が半分しかいかなくなり寝たきりになった中学生がいて、調べてみると学校に行きたくないと強く思っているうちに身体がその思い通りになってしまったことが判明したり、前世代より欲のなくなった(薄い)若者たちが原因不明の病気にかかり死んでいくケースが増えているという記述が出てくる。
 この作品は綿密な取材をベースに書かれたもので、原因不明の病気と若者の意欲、気力の後退が関連付けられるのかどうかはまだ明らかになっていないと思うが、読んでいて「人の強い思いが持っている“実現力”はなんてすごいんだろう」と強烈な印象を持ったことをふと思い出した。

 同僚は周囲の知人の中でも特に心根がやさしい男だが、どこかに厭世的で無気力なところがあり、6、7年前の離婚以降、特にそうした傾向が強くなっていたので心配になることはあった。

 今年に入って学校に行くのが嫌だといってベッドに自分の手を強力接着剤で貼り付けた10歳の子供のニュースが流れていたが、この子にはまだ「僕は行きたくないんだ」という意欲、意思の強さを感じる。
 しかし、急増しているといわれる社会と関わりあいたくない、人と関わりあいたくないという若者、大人の願望の流れについては、かなり危険だと思う。
 自然界には他との関わりをもたずに自分だけで生きていける生物など一匹、一本とていない。
 人もその自然の一部として存在しているのだから、目の前のこととの関わりを極端に避けていくだけだったら、待ち構えているのは自らを自らが否定する「静かなる死」であろう。

 正月明けの仕事始め以降、その同僚から職場にパタリと電話がかかってこなくなった。
 僕も携帯電話に連絡を入れたが出ない。いつもなら、出なくてもしばらくしてから必ず連絡がくるので「どうしたんだろう」と心配していたら、昨日になって同僚のお母さんから入院したという連絡が職場にあった。
 昨日はどうしてもスケジュールを空けられなかったが、今日は夕方に病院を訪れようと思っている。
 
 今の職場、職業に戻る必要などないのだ。まだまだ若いのだからまずは社会や人々との関わりを持てるだけの状態に自分を回復させることが先決だ。
 欲深いのはみっともないけど、ささやかでも希望の灯に気づくぐらいの最低限の欲を残しておかないと人は生存していけない。
 同僚が治す意欲、生きる気力を少しでも取り戻すための力に少しでもなれないものかと思いを巡らせている。

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