2008年8月26日火曜日
大敬先生の「般若心経」講義⑥文殊菩薩の心の法
次は「文殊(もんじゅ)菩薩」です。
般若心経の本文では「是諸法空相(ぜしょほうくうそう)~不増不滅」までが文殊さんの出番です。
文殊菩薩は、ライオンに乗っています。姿は子供で、身体は黒く、手には剣(つるぎ)をもっています。
「不生不滅 不垢不浄 不増不滅」
スクリーンの上で生き、そして滅びる。
人は無意識に自分自身を制限しています。
人は時間の中で物事をとらえます。そこには経歴のブロックがあったりします。
禅の神様である仰山(きょうざん)禅師は、ある日、夢を見たとおっしゃいました。
その夢には、お釈迦様と文殊菩薩が会合しており、その隣の3番目の席が空いていました。
禅師は、その席にすっと座ったところ、「今日は3番目に座った人が説法をする日です」と言われました。
仰山さんは「差別を絶しています」と言って説法を締めくくります。
この夢物語で仰山さんは私たちに何を伝えようとしているのでしょうか。
お釈迦様と文殊菩薩の隣の席ですから、普通なら気後れして逃げ出してします。
自分にはふさわしくないと自ら決めてしまい、自らを制限し、限定してしまいます。
でも、人生では、今のあなたにふさわしい「空席」は決してこないし、今のあなたにふさわしい「仕事」も絶対やってきません。
仰山さんは答えは「席があったら坐りなさい」、「仕事がきたらやりなさい」ということです。
グズグズ文句なしに、思い切って、サッと席に着き、サッと働き出せば、必要な能力も、必要な智慧も、次々限りなくわきあがってくるものだと言っているのです。
金光教の教祖の湯川さんのお話で、10年間病気だった人をお祈りして治してあげようとすると、どれぐらいで治るのかと訊ねられた。
「1日で治します」と言うと、
「10年も病気だったのに1日で治るわけない」と言う。
「じゃあ、1週間で治しましょう」と言うと、
「10年、病気だったのに1週間ですか?」と今度は訊かれたという話があります。
世界は1刹那(せつな)で切れているのです。
「不垢不浄」は、けがれていない、きれいでないということです。
罪の意識で病気になり苦しむ人がいます。
「私はダメな人間だ」「私は汚(けが)れてしまった」「過去にこんな罪を犯しているから取り返しがつかない」・・・
他人の評価に自分をゆだねているんです。
人は“光”そのものです。“光”は汚れることができないし、傷つくこともできません。そして、“光”は歩みを止めることもできません。
「不増不滅」は、増えたり減ったりしない、この世はスクリーンに映ったドラマなのですよ、とうことです。
10円は描きやすいのに、100万円は描きづらいと自分が思っているだけなのです。
描く手間は一緒です。
自らが描き出した映像の世界に、のめりこみ、巻き込まれることによって、人は思い通りの人生を送れなくなるのです。
スクリーン上で展開されている“増減ゲーム”からひとまず眼を放し、心の豊かさを持ちましょう。
心さえ、たっぷりうるおって、あったかくて、光いっぱいの明るさをたもっていれば、豊かさのシンボルである“お金”ぐらい、いくらでもやってきます。
文殊さんは「思いを断つことが大切」とおっしゃっています。
だから、剣を持っていて、その「光の剣」で絶つ。
文殊さんはウジウジをスパッと断っているのです。
http://kutsulog.net/cat0614-1.php
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