2008年2月16日土曜日

絲山さんの小説に描かれた指宿も「やっぱり“ワールズ・エンド(世界の果て)”だったのです」


 ここのところ、絲山秋子さんの小説にハマっている。
 今年1月に女性作家の小説を集中的に読み、その感想を簡単にこのブログでも書いたが、それを機に絲山さんの作品にズルリと魅了されてしまい、「袋小路の男」に続き、「海の仙人」「エスケイプ/アブセント」「イッツ・オンリー・トーク」「逃亡くそたわけ」「沖で待つ」と立て続けに読んだ。
 1日に1冊のようなペースで読んでしまうこともあったが絲山さんは最近の作家で世に出ているのが10作品ほどだということがわかったのでペースを一気に落とした。慌ただしく読むのはもったいない。残りの作品はスルメを味わうように読むとしようと思ったからだ。

 読んだ作品の中からここでは「逃亡くそたわけ」という作品について紹介したい。
 この作品は、福岡の精神病院を抜け出した若い男女が逃走生活を送る日々が描かれている。ふたりは福岡から車を南へ南へと走らせながら、さまざまな出来事や、幾重ものやりとりを重ね、逃走の旅は終焉(しゅうえん)を迎える。
 その終焉地が僕の故郷、鹿児島県の「指宿(いぶすき)」なのだ。

 薩摩半島の南端にある指宿を僕は20年ほど前に離れて東京に向かった。来た当初は来た当初なりの色で、歳月が過ぎ去れば過ぎたなりの色で郷愁の思いというものはずっと僕の胸中を巡り、彩り続けてきたし、これからもきっとそうなのだろうと思う。
 ただ、そんな思いとは別に、故郷の指宿には遠く離れたからこそ見えてくる印象が浮かび上がってくるものがあった。それは20歳の頃に読んで好きだったポール・セローの小説のタイトルにもなった「ワールズ・エンド(世界の果て)」という強烈な印象だった。
 本州最南端に位置するその町で目の前の海原を眺めながら育った者として、そこにいる時にはわからなかったが、一歩離れてみると、彼の地はまさしく「ワールズ・エンド」なのだ。
 その後、仕事やプライベートで欧米やアジアなどの地を踏んでもその思いはまったく変わらない。

 だから、「逃亡くそたわけ」の中で、登場人物のふたりの旅の終着地が指宿、そして長崎鼻(ながさきばな)であったことに僕は少なからず驚き、同様の思いを抱き、さらにそれを小説という形で表現されたものにふれられてじんわりと感慨のようなものが胸の内で夕焼けのように広がった。

 そうした指宿への印象を抱いている人が身近にもいた。
 先日14日にフランスから仕事で帰国した友人と東京で飲みながら、彼女が本好きだったこともあって、絲山さんの小説のこと、ワールズ・エンドのことを話したところ、
 「長年海外で暮らしてきたけど、私もずっと指宿がワールズ・エンドだと思っていたの」と少し驚いたような表情でつぶやいた。

 そう言った彼女は翌日、その「ワールズ・エンド」に向けて飛び立っていった。

 「逃亡くそたわけ」のクライマックスには、潮が引くと海の中に砂の道ができて渡ることができる「知林ヶ島(ちりんがしま)」や、登場人物のなごやんに「富士山のレプリカかよ」と怒鳴らせた「開聞岳(かいもんだけ)」が登場する。
 僕は人生の晩年をその「ワールズ・エンド」で過ごしたいと思っているし、その希望がたとえ叶わなくても死んで灰になってしまえば誰かの手で、沈む夕日に映える開聞岳がよく見える墓地に眠ることになるはずだ。

 そういう意味では、いつも「ワールズ・エンド」はいつも僕の身近にある。

 数年ぶりに新刊が出たらすぐに読みたいと思える作家に出会えた喜びの直後に、その作家から指宿に「ワールズ・エンド」をうかがわせるようなメッセージをいただけるなんて思いもしなかった。
 良き読書生活を強く予感させられる年始めである。

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