2008年5月21日水曜日

「生かされている」は殺人者への感謝の言葉


 久しぶりに本の話。
 本は相変わらず読んでいるけど、紹介するとなると、どこから手をつけていいのか悩む。
 先日、読んでいて「あ、そうなんだ~」とびっくりさせられることがあったのが、この

 アルボムッレ・スマナサーラ著「『やさしい』って、どういうこと?」

 スマナサーラさんはスリランカ仏教界の長老でお釈迦様のことをわかりやすく伝えている人。
 僕は彼の著書をたくさん読んでいるわけではないが、以前「怒らないこと」を読んで感銘を受けた。

 この本も100㌻ほどの薄いものだが随所に新たな発見があって楽しく読ませてもらった。

 タイトルにある「やさしい」ことは、とても大切なもののように思えるが、実は、“自分”が何かをしてもらったり、“自分”の言うことを聞いてもらったりしてくれる相手が「やさしい人」であったり、逆に「自分がやさしくしているのにうまくいかない、わかってくれない」と悩む人もいる。
 いずれも、自分の型にはまってくれる人が「やさしい」、そうじゃない人は「やさしくない」という評価・判断が一般的になり、「やさしさ」は“エゴ”そのものになっているのだ。

 スマナサーラさんは、「やさしさ」は必要不可欠なものだけどとしたうえで、
 他人に「やさしさ」を求めることが、「自分の要求を満たしてくれと、他人に頼むこと」である。つまり、やさしさは「他人を自分のために使用すること」なのである。だから、あってはならないと諭す。

 そこで、スマナサーラさんは、お釈迦様もそうおっしゃっているが、「私」と「他」の対立から、苦しみが生まれている。では、「私」がなくなれば苦しみはなくなる。「私が、私が」というエゴを捨てて、より客観的に、より普遍的に物事を見て、自分は無数の生命でできた「生命のネットワーク」の中のひとつとして今があると考えてはどうだろうかと問いかける。

 「無数の生命のなかで、この自分という一つの生命が、他人からやさしくされたいと思っている」
 「自分という生命のなかで、この自分という一つの生命が、他人からやさしくされたいと思っている」
 「この生命は、自分だけ独立して自由勝手に気ままに生きているのではない。他の生命の協力によって成り立っているのだ」

 このあとに、記されていた次の一文を読んで、僕はかなりびっくりさせられ、考えさせられることになった。

 「ここで私は、『生かされている』という単語は使いたくないのです。それは間違いの世界です。
 『生命は成り立っている』のです。無数の生命の協力によって、今ここにいる自分という生命が成り立っているのです。他の生命もまた、他の生命によって成り立っているのです」

 さらに、スマナサーラさんは次の章「『生かされている』は殺人者の感謝の言葉」で続ける。

 「どんな生命でも無数の生命の協力によって『成り立って』います。『生かされている』という言葉に私が反対なのは、この言葉を使うと相手側が『上』になるからです。『生かしておいてやろう』と言う誰かがいることになるからです。
 しかし『生かしておいてやろう』と言うなら、『殺したいところだけど、生かしておいてやろう』ということです。これは因果法則を知らない人の傲慢な言葉です。
 『私は神に生かされている』というなら、『神は私を殺したい』ということです。それで神に感謝するとは、どういう話でしょうか。
 そもそも一切の生命は対等であって、『生かしておいてやろう』と言う権利は誰にもないのです。



 スマナサーラさんはこの本の最後に、「エゴの治療法」として、
 まずは「私(自分)」の、次に「私の親しい人」の、そして「生きとし生けるもの」の、さらに「私の嫌いな人」の、最後に「私を嫌っている人」の幸せを願う言葉を記し、これを3回ずつ読んでほしいと述べて結んでいる。
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