2008年5月24日土曜日

「自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう」


 「人間イエスを科学する(アウグスト・クリ著)」を読む。
 タイトルにひかれたが内容は残念ながら期待はずれ。
 でも、人生同様、本との出会いにも偶然はなく、どこかになんらかの意味がある。
 まあそう言いつつも、肝心のところを見落としているのかもしれない。が、それはそれで受け入れていくしかない。
 この本からは、これまで何度か目にしてきたキリストの言葉を改めて読み、考えさせられたことがよかった。感謝、感謝。


 「明日のための心配は無用です。明日のことは明日が心配します。労苦はその日その日に、十分あります」(『マタイの福音書』6:34)
 
 同様の言葉を釈迦(しゃか)も言っている。
 「明日やります」という人は明日になるとまた「明日やります」と言う。
 そうした意味で、人の人生に「明日」はないといえるかもしれない。
 「今日(今)」を十分に生きる。そうしながら日が沈んで、日が昇るとそこには「明日」ではなく「今日」がある。
 それに、好き嫌いは別にして目の前にある課題が自分のとって大切なことらしいのでなおさら「今」なのだろうと思う。


 「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」
 
「自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう」(『マタイの福音書』5:43,44,46)

 キリストの言葉でもっとも有名な言葉のひとつ。
 僕は後半の言葉に生きる上での玄妙さを感じる。キリストの重要なアドバイスではないかと思う。
 自分を愛してくれる人、褒めてくれる人、都合のいい人を好きになることは誰にでもできる。
 その方がやっぱり楽しい。でも、キリストはそれには「何の報いもないよ」と教えてくれている。
 イヤな人のために、顔も見たくないし、口も聞きたくない人を愛することにこそ「報い」があると言っているのだ。
 それでもそんなイヤな人を“愛する”ことはなかなか難しいの。だから、まずは存在を認める。少し受け入れることにする。心から思ってなくてもそのイヤな人が幸せになりますようにと言葉だけ口にする。そうこうしているとキリストの言う「報い」ってこれなのかなということが起こっていることに気づく。イヤな人のために祈る自分の心が少し豊かになっているのだ。「イヤだと思う自分のことがイヤで、そうじゃなくなっているので、うれしい」って感じも僕は「豊かさ」のひとつだと思う。
 「イヤな人」が現れたら、「『報い貯金』のチャンス!」と自分に言い聞かせるのもひとつの手からもしれない。

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