2008年6月16日月曜日

喜捨はした人が「ありがとう」

 時々、托鉢(たくはつ)をするために街角に立っているお坊さんを見かける。
 お坊さんが持つお椀の中にお金を入れて「喜捨」をすると、一般的に手を合わせるか、お経を読んでくれる。
 托鉢は、当然のことながら、お坊さんたちが食べる物に困ってお金を恵んでくださいというために立っているのではない。
 お寺の事情もさまざまだとは思うが、たいがいのお寺は贅沢はできないにしても3度のご飯ぐらいは普通に食べられる。
 彼らがやっている托鉢は、人々のためにやっているのである。
 2600年ほど前にお釈迦様は弟子たちに対して、「托鉢に行きなさい」と薦めた。
 そして、「托鉢は貧しい人のところに行きなさい」と言った。
 弟子たちは「貧しい人のところには行きなさんな」とお釈迦様が言い間違えたのだと思い、問い直した。
 しかし、お釈迦様は「違う。お金を持っている人のところにはいかなくていい。貧しい人のところに行って喜捨を求めてきなさい」と再び念を押したそうだ。
 人々の幸せをたえず願っているお釈迦さまの教えである。「喜捨」は、喜捨をするという行為がその人の人生を幸せに、豊かにするために設けられているものなのだ。
 お釈迦様は弟子たちにこう説明した。
 「お金持ちは喜捨ができる。しかし、貧しい者たちは喜捨するという大切なことから遠く離れ、苦しみの世界から抜け出せずにいる。貧しい人々を救い出すのです」
 だから、昔から「喜捨」をした人の方が、「ありがとう」と言って立ち去るのが正しいのである。
 もちろん、喜捨の多寡(多い少ない)は自分が困らない範囲中での話である。
 今は年配の方もそうしたことをご存じなく、「お礼も言わないクソ坊主」と立腹する人がいるそうだが、「喜捨」は救いへの導きのひとつの方法であり、「喜捨」をした人が「ありがとう」と言うものであることを身近な大切な人にはそっと教えてあげてほしいと思う。


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