2008年6月1日日曜日

「私はまだ、死ぬという大切な仕事がある」

 人の記憶はあてにならないことがある。
 前にここでご紹介した「感謝婦人」のことが収録された三浦綾子さんの「忘れえぬ言葉」を読み返してみると、
 三浦さんはクリスチャンだったが、「感謝婦人」はそうではなく、熱心な「天理教徒」だったことがわかった。
 お詫びして訂正いたします。すみません。

 久しぶりに読んだ「忘れえぬ言葉」に収められたエッセイはいずれも心にしみるものばかりである。
 新装丁された文庫本が出ていると知って雨の日の休日に、地元の本屋を2件、隣の駅の本屋を2件、電車に乗りひと駅先の本屋を2件、計6件の本屋を巡ったが見つけられず、結局ネットで注文して数日後に手にすることができたことを割り引いても十分に満足のできる一冊であった。

 本屋巡りをしながら得たものもある。
 「たとえ本ひとつであっても、いかなることをしようと、『出会えない時には出会えない』」ということである。

 ある人がこう言っていた。
 「人生でつらいことがふたつある。ひとつは、『会いたい人に会えないことである』。
 そしてもうひとつは『会いたくない人に会わなければならないことである』」と。

 いずれも、その通りであると思う。
 でも、それが自分の心のあり様がもたらす結果であるとわかると気持ちはかなり楽になる。
 目の前のことを「楽しもう」と自分で思ってみるとずいぶん景色が変わってくる。

 長年にわたり本屋を巡り、それが趣味のようになった人間だと、そこそこ大きな本屋を丹念に探し、求める本と巡り会えないケースが3件続くと、そのあたりにはその日の結果はおおよそわかってくる。
 そこで落胆して「ツイてないな」と思うか、しゃかりきになるか、楽しもうと思考するかを境目として、その日の心持ちも大きく異なってくる。
 また、「楽しんで」いると、そんな時にこそ、別のすばらしい“相手(本)”がちゃんと待っていてくれたりするから、おもしろいものだ。



 今回は、ようやく巡り会うことができた「忘れえぬ言葉」の中から僕が特に忘れえぬ言葉となった作品をいくつかをご紹介したいと思う。



 50余年という三浦綾子さんの闘病人生の多くを支えてきたのがご主人の光世さんである。
 本人も決して健康とはいえない身体なのに、三浦さんのガンの自然治療のためにと1日2回、汗をかきながらマッサージをしてくれる。

 それが心苦しい三浦さんは
 「ほんとうにすまないわねえ」
 と、時々言う。
 すると、そのたびに、彼はニコッと笑って、

 「イット・イズ・マイ・プレジャー(私の喜びだ)」と答えてくれる。

 この言葉を聞き、マッサージをされながら三浦さんは涙をこぼしそうになる。




 叔母(おば)はご主人に言い出しかねて嘘をついてオペラを観に出かけた。

 その日珍しく早く帰っていたご主人は
 「ああいいよ。おれが留守番するから、ゆっくり行っておいで」と快く送り出してくれた。

 劇場に着き、オペラの券をハンドバックから出そうとすると手の切れそうな10円札が券のそばに入っていた。
 友達と出かけるとなればお金も必要になるだろうと思い、何もかも知っていて、そっと小遣いをしのばせておいてくれたのだ。
 叔母は叔父の寛大な愛に打たれて家に帰った。が叔父は
 「おもしろかったか」
 と尋ねただけだったという。
 叔母は嘘をついたことを詫び、小遣いの礼を言ったが、叔父はただ笑っていたという。

 「綾ちゃん、何も言わないことも、言葉の一つなのねえ」
 としあわせそうに述懐した言葉が、今も耳に残っていると三浦さんは綴(つづ)る。



 三浦さんのお母さんは84歳で亡くなるまで笑顔の絶えない人だった。
 息子が7人いて、その妻達も同じ数だけいた。嫁姑との間にはいろんなことがあるものだが、実の娘である三浦さんと二人っきりの時でさえ、お母さんは愚痴や悪口を一度とさえ言わなかったそうだ。
 そんなお母さんがある日、三浦さんにこう言った。
 「母さんはね、街で結婚式帰りの、あの白いビニールの風呂敷に引出物を包んだ人たちを見ると、どこの誰の結婚式かは知らないが、『どうか一生幸せであるように』、とお祈りしないではいられないんだよ」

 三浦さんは、見も知らぬ二人の結婚を、一生幸せであってほしいと願う母親が、16歳で結婚してから大変な苦労をしてきたことを知っていた。
 そんな母であったから、母はきっと、結婚というものの重さを、誰よりも身にしみて感じ取っていたにちがいない。どんな人であろうと、自分が遭ったような苦しみや悲しみに遭わせたくない。母はそう思って生きてきたのだろう。だから、どこの誰とも知らない人の結婚にも、
 「どうか一生幸せであるように」
 と祈る心となったのかもしれない。
 そう作品を結んでいる。


 三浦綾子さんは1999年10月、50余年の闘病生活の末に他界する。
 死の床で遺した言葉はこうだった。

 「私はまだ、死ぬという大切な仕事がある」


 これもまた「忘れえぬ言葉」である。


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